久しぶりのアップです

 コロナで、食べることと、歌うことの二つに制限が加わり続けています。こんなことは、いつまで続くのでしょうか。優秀なコンピューターのおかげで、飛沫を視覚的に見ることができるようになり、飛沫を意識していなかった私も飛沫を意識するようになりました。視覚化されたことによって神経質になった方々とそうでない方が二つに別れてしまいそうです。ですから、いつになったら、教会で自由に、歌うこと、食べることができるようになるのでしょうか。

 

 改めて、歌うことと食べること、に注目するべき時となってきているように思います。そう言えば、初代教会の時代から、食べることと歌うことの二つで、教会はいつも問題を抱えてきたのではないでしょうか。食べることと歌うことで問題が起こって、そして神学をし続けてきたのではないでしょうか。その最初がパウロによってなされたことを思い起こしたいと思います。パウロは、食べることの問題を解決する牧会をしてきたと言えましょう。また最近の教会は、歌うことの問題を解決する牧会をしているように思います。例えば、福音主義系、自由教会系であるならば、ドラムスを礼拝に取り入れるかどうか、これも大きな課題です。

 

 確かに、食べることと歌うことは時代の影響、文化の影響を強く受けてきました。福音の本質とは違う、時代の影響、文化の影響で私たちは揺らいできたのです。揺らいで、成長してきたとも言えましょう。

 

 礼拝堂内では、食事をしてはならないと、敷地の小さな日本の教会で決めてしまった場合、まず、問題にぶつかるのがクリスマス祝会を礼拝堂でする場合、お菓子をどうするか、ということでしょう。その教会でルールを徹底できれば良いのですが、日本の教会は、その教会で育った方々ばかりでないので、それで多様性のなかで揺れることになるわけです。

 

 またソ連時代に迫害下で声を出さないで礼拝した伝統を持っている私たちの教派でドイツに脱出したクリスチャンたちは、大声で歌う歌、ドラムスの入ったCCMのことを悪魔のように扱ったりもしたものでした。ですから他の教会にはない厳しい判断が必要でした。若い人たちはオンラインを通して、アメリカ的な音楽をどんどん取り入れますが、迫害下で育った人たちはそう簡単にはいきません。当然と言えば当然でしょう。ですから、歌うことと食べることはとても大切なことであると同時に、問題をはらんでいることを認識する必要があると思います。

 

 さてコロナのもとで、私の牧会する教会は緊急事態宣言下では教会を閉じ、オンライン礼拝のみになり、今はまんぼうの時期ですので、人数制限で礼拝をし、賛美は最後に固めて、二曲のみ歌うという形で進めています。そして賛美を歌う時から窓を開いて歌っています。たまたま私たちの教会国道二号線沿いですので、窓をあけても問題ないのですが、窓をあけることのできない教会は大変でしょう。

 

 またアーメンのところだけ声を出しても良いという黙唱もしています。自然にハミングになっているようですが・・。また、今まではコンサートなどで、ゴスペルや歌い手さんに来て頂いて、証しの賛美をして頂きましたが、今はそれができないので、最近は、クラシックのピアノやチェロ、バイオリン演奏、は飛沫が飛ばないので、割合頻繁できていることを感謝しています。

 

 また、新しいタイプの音楽は、今日も教会の音楽グループが来ていますが、オンライン配信のための録音、録画撮りです。そのような形でしかできていないのが現状です。オンライン配信で聴いてもらう、一緒に賛美してもらう、一つの楽しみになりそうです。

 

 よく響く広いカテドラルならば、ステージの上で賛美する人たちがいて、たくさんの人が集まっても、マスクをして声をあまり出さないならば、問題なく、コロナを乗り越えることができそうですが、でもほとんどの日本の教会は、小さく、窓を閉めると密閉状態になり、クーラーをつけるとクーラーの振動音が聞こえてきます。そればかりか、換気扇や加湿器などの音が加わり、なかなか大変な状況になってしまいます。

 

 また食事を共同体として大切だと考えてきた教会としては、礼拝が終わるとすぐに帰る普通の教会になってしまうことを危惧しています。ただ一度経験した食事の共同体的な教会のあり方を消すことはできないでしょう。私たちは歌わないと生きていけないものです。食べないと生きていけないものです。新しい時代はあらゆる可能性を探り求め、毎日、毎週がトライアルで創造的な教会活動を追求していく必要があるように思います。

 

 先日、30年前に行っていた河川敷での野外礼拝を多部礼拝の一つとして再開させることにしました。また、聖餐式も思い切って再開することにしました。