福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.3

 「教会音楽」や「礼拝学」は神学の分野では、「実践神学」に属する。「実践神学」とは「組織神学」と「聖書神学」と「歴史神学」の裏付けがあって初めて息を吹き出す神学である。しかし他の神学に従属する位置にある「教会音楽」「礼拝学」ではあっても、最も信徒の側ではわかりやすい「目に見える神学」でもある。つまり「教会音楽」「礼拝学」こそが、週一の聖日礼拝の礼拝(1時間〜2時間)を作り上げる重要な要素だからである。の授業は「礼拝と音楽」という授業であるが、もちろん「教会音楽」に限って言えば、「礼拝と音楽」だけでなく、「宣教と音楽」も重要な要素となっていく。
 さてこれからの学びの進め方であるが、一つ目の学びとしては、もちろん「聖書からの学び」である。つまり聖書は礼拝についてどう語るか、教会音楽についてどう語るか、である。今回の学びで、聖書から多様な礼拝のあり方、教会音楽のあり方を探り、バランス感覚を身につけて頂きたい。というのも、霊感された聖書は、「音」そのものを引き出すことを要求しない。また普遍的な礼拝様式を引き出すことを要求しない。聖書における多様性に触れ、バランス感覚を身につけていく必要がある。

 二つ目の学び方としては、歴史を通しての学びである。聖書の中の歴史を超えて、キリスト教2000年の歴史からバランス感覚を身につけていく必要がある。2000年の教会史のなかで、どのように神を賛美してきたか、礼拝してきたか、を知ることは、これからの賛美と礼拝のために大きな助けとなろう。歴史における各時代、各教派の両極端の考え方を学び、それをより客観的に見ることによって、バランス感覚を磨いて、良き選択をしてほしいと願うものである。

 ここで、少しだけ、歴史の見方に触れておこう。例えば、歴史をどう受け止めるかで立場を異にしていくことが現にある。私たちの源流である再洗礼派は、宗教改革時に、それまでの「カトリック中世」という歴史を当時のカトリックの堕落とともに排除しようとした人たちであった。つまり彼らはルターやカルビン以上に、カトリック時代の教会音楽を否定したのである。しかし一般の西洋音楽史、教会音楽の世界は違う。もちろんのこと、「カトリック中世」に教会音楽の偉大な発展を見たことを認めている。そこにこそ教会音楽の生命線があったと主張するほどである。例えば、カトリックの立場から、美学者である野村良雄は、プロテスタント教会ルター派)のバッハの偉大な功績は「カトリック時代の遺産の集大成」とし、バッハをカトリック側に取り込もうとするわけである。そのようなわけで、「カトリック中世」をどのように見るかひとつで、「教会音楽」についての考え方が、かなり違ってくる。

 三つ目の学び方として、一般音楽の専門分野から学ぶということであろう。牧師は音楽分野のすべてを知る必要はない。もしすべてを知ろうとするならば、本業の牧会に支障をきたすであろう。しかし、ある程度、音楽に対して、音楽家に対しての理解を持っていないと、教会に導かれた音楽家を適切に用いることはできない。例えば、朝の声の出にくい礼拝時間にクラシックの方が独唱するのに、何時間前に起きて準備するか、なども知っておいてあげるほうが良い。声の状況を維持するために見えないところでの努力があることぐらいは知っておいてあげる必要があろう。あの声ができるためにどれほどの見えない調整があるか、ということである。しかし我々日本の福音派アメリカの教派主義の影響を受けた福音派であるがゆえに、明らかに西洋クラシック音楽の主流派とは完全に分離していたことをしっかりと教えてあげる必要がある。

 また私たちの教会の音楽の主流は「聞かせる賛美」よりもルター以降の「会衆賛美音楽」だということも教えてあげる必要がある。例えば、奏楽者が前奏の後、歌い出しのタイミングで、約一拍の休符をつけることなど、一般音楽では教えられないものも知らせる必要がある。そのようなことも含めて、私たちの側から、音楽家に理解をしめし、正しい指導をしてあげる必要がある。この点で成功した教会は少ないように思われる。多くの場合、音楽の専門家が極端に特別扱いされ、音楽家の一人歩きが始まるか、極端に用いられないかのどちらかである。教会の対応がまずく、結果的に、専門の勉強をした音楽学生は教会で活動するのではなく、超教派活動だけを活躍の場とする傾向が今も続いている。結局やはり奉仕を整えることで失敗してきた。またアメリカ系のCCMに関しても、PAの知識とある程度の理解が必要であろう。「音がやかましい」と言うならば、どのようにPAを使用していくか、が大切なのである。

 四つ目の学び方であるが、「讃美歌学」「聖歌学」という大切な分野が残されている。具体的には歌のレパートリーを増やし、歌の事情、作詞作曲者の証などを知っておく学びである。それは「讃美歌」「聖歌」を通して、歴史的な霊性(スピリチャリティー)を読み取り、現代日本の現場に伝えるという、「霊性神学」的な取り組みである。

 しかし、実際はそのレベルに到達していない。何しろ牧師が教会に遣わされたとき、苦痛が伴うのが「歌選び」である。1年の礼拝が約50回で一回3曲ならば、150曲をどう選ぶかと言うことである。同じ曲をある程度選ばないと教育的ではないので、1年に100曲以内に絞り込まれていくことになろう。つまり新聖歌に限定するならば、500曲中100曲をどう選ぶか、なのである。その場合、まずは、自分のレパートリーと教会会衆のレパートリーのずれで苦しむことにもなる。また説教との関連で「歌詞」を基準に選ぶことを牧師の選曲の根拠としていくわけであるが、いくら歌詞が説教に合っていても、実際、牧師がその「旋律」を知らないままで選んでしまう場合もある。実際「歌詞」だけで選ぶときに、その教会で全然歌われていない曲が選ばれたりもする。だからといって、牧師が知っている曲ばかり選ぶ場合、牧師の主観的なレパートリーがその教会を治めてしまうことになる。ある程度はしかたがないとしても、牧師の主観で曲が選ばれているように思われてしまうと良い結果は生まれない。そのために、牧師は一曲でも沢山の曲を知り、曲の成立事情、作者の証なども知っているほうが良いのだが・・・。

 五つ目の学び方であるが、「教会音楽」から一旦離れた「礼拝学」である。まずは各派の「礼拝学」を理解するならば、教会音楽の位置付けは容易になる。様々な「礼拝学」的議論に一応身につけておれば、牧会事例のなかで、どれほど助けられることだろうか。大きな課題としては、使徒信条にある「公同」(カトリック)なるものをどう位置付けるか、である。次に、「音」の領域を礼拝学的にどう位置付けるか、である。また「好み」の問題、「文化」の問題をどう位置付けるか、である。例えば、厳格にリタジーを継承する成文祈祷の教会に対して、単なる形式的な教会として一蹴して良いのだろうか、などなど、である。