福音聖書神学校「礼拝と音楽」 No.29   

9、賛美に人へのメッセージはあるのか

 

 礼拝を組むなかで整理しておかねばならないことは、やはり、聖歌に多く含まれている「福音唱歌」の問題である。「福音唱歌」は、メッセージ性が強くあり、本来の賛美が、人からの神へのいけにえとされている方向性と異なる面があるとよく指摘される。ある曲は「人から神へ」というよりも「人から人へ」のメッセージであるしか考えられない曲もある。またある歌は説教に節をつけたような「神から人へ」の賛美もあるように思える。

 

   A、賛美に人へのメッセージがある。

 

 「賛美のお手本」である詩篇は、主にある経験から沸き出した豊かな信仰告白の集大成である。詩篇には「主よ」という直接的な呼び掛けもあれば、「主に感謝して、御名を呼び求めよ。その御業を国々の中に知らせよ。」と言った人々への語りかけのようなものもある。このように、最高の信仰告白である詩篇は、神に向かってなされた信仰告白であるとともに、同時に人に向かって、なされた証しとしての信仰告白として書かれている。

 

 そのように賛美の人へのメッセージと神への応答は、詩篇においてみごとに一体化されている。ただ、一体化と言うものの、人へのメッセージがひとり歩きすることは、それが賛美である限り決して認められることではない。

 

 また、新約で考えてみるならば、「福音のために何でもする」と語ったパウロが宣教のために最高の道具である音楽を用いなかった理由はないということも考慮に入れるべきである。おそらく、新約聖書成立以前の賛美は、多くのケリュグマ(福音)が道具としての音楽に乗って語られたであろうと推定されている。また第一テモテ3章16節もそのような賛美の一部であると言われている。また、ある曲は、思いきって、賛美として音楽を用いるのでなく、説教として音楽を用いるという発想で、「神から人」向かう説教のなかに賛美を入れても面白いのではないかと思う。

 

    B、賛美には礼拝統一のための人へのメッセージがある。

 

 「宣教」は多様性の追求であり、「礼拝」は統一性の追求である。パウロは、コリントの教会が異言により礼拝の統一性を欠いたために、14章において、次のように述べている。「また、知性においても賛美しましょう。」これは、礼拝の統一のために、お互いの徳のために、教会においては、「わかる歌詞」で賛美するようにとのお勧めである。「わかる歌詞」でないと、決して礼拝の統一を図ることはできない。神にのみわかる言葉で賛美すればよいのではないかとの考えは間違いである。また現代で言えば、わからぬ文語体のままで良いと満足している教会があるならば、恐らく、その教会の礼拝は統一性を欠くか、統一できるものだけの排他的な集いとなる危険がある。