福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.1

私と教会音楽(戦後福音派の教会音楽を概観しつつ)

 私と教会音楽との出会いは、日本MBの最初の牧師の子として育ったなかでのMB宣教師たちから受けた「福音唱歌」との出会いから始まる。多く福音派の牧師先生方はこの「福音唱歌」を位置付けできていないように思う。そうであるのは、多くの「福音唱歌」を日本に導入された聖歌を編集された中田羽後氏の功績とも言えよう。というのは、中田羽後氏はアメリカ生まれのおりかえしつき「福音唱歌」の音楽レベルを向上させるために尽力され、日本基督教団の讃美歌に引けをとらぬ「聖歌」の群れを作り上げたからである。

 がゆえに我々日本のMBも、他の福音派教会と同様に、「聖歌」を始めとする福音唱歌について、讃美歌と同列に位置付けてきたのではないだろうか。しかしヨーロッパものの讃美歌とアメリカものの福音唱歌は根本的に違っていた。アメリカの福音唱歌は19世紀の根本主義、大挙伝道から出てきた新しいタイプの運動の音楽であった。そのような福音唱歌はヨーロッパものの讃美歌に生きてきた米国の教会のなかでは大衆音楽のように思えた、そのような別物であった。

 私が最初に出会った教会音楽は、このような「福音唱歌」であった。それも聖歌がまだ発行されていないときから歌われていたもので、日本基督教団の「讃美歌」においては「雑」の部分の曲であり(実際日本基督教団の信徒は「雑」を好んだ)、「リバイバル聖歌」「勝利の歌」に収められていた歌であった。特に「勝利の歌」は在日MB宣教師たちが好んで歌い、多くの信者を感動させたことは記憶にとどめる必要があろう。宣教師ご夫妻で二重唱している「勝利の歌」の半音階奏法は当時の日本MBの信徒にとって、別世界の聖なる世界を思わせる雰囲気を漂わせていた。私などは、その曲を聞くだけで、我々の知らない古き良きアメリカの霊性を感じとったものである。それと同時に、私が生まれた頃に日本で始まったのが「アメリカ型大挙伝道」であり、スタジアムで歌われた曲も新しいタイプの「福音唱歌」であり、当時は新しいものがどんどん紹介されていくなかで、日本の福音派信徒は大きな刺激を受けた。

 そのようななか、私は小学校2年生にピアノを近隣の教会の副牧師から習い始めた。先生は日本ホーリネス教団の牧師のご三男さんで、私が牧師の息子だということで特別に安価な謝礼でピアノを教えてくださった。私の一人目の音楽の恩師、文屋知明氏である。

 先生の作曲された曲は日本基督教団の讃美歌にも採用されていて、私としてはこのような方からピアノを学ぶことができたことは恵みとして言いようがない。ただ私が劣等生だったので、私に少しばかりの期待をかけてくださったことに対して申し訳ない限りであった。そんな私が小学校六年生のとき、音楽大学に行かないことを表明したのをきっかけにして、中学生時代からは教会オルガン奏法を教えてくださった。6年ほど学んだこの奏法は自然に身につき、今も非常に役に立っている。私はそのようなことで小学生の頃から11ストップの足踏みリードオルガンヤマハ)で、玉川キリスト教会の礼拝の奏楽をするようになっていた。

 さて、私が中学生になった頃(1970年頃)であるが、福音派系の教会のなかで若者たちの新しい流れが起こっていった。それがギター伴奏で歌う「ゴスペルフォーク」であった。その火付け役が山内修一師(私が将来影響を受けた三谷幸子女史の三谷クワイヤーの先輩である)であり、彼は浦和福音自由教会を舞台にして、分冊で「友よ歌おう」の歌集を毎月のように発行し続け、福音派内で一つの運動となっていった。それまではギターは教会では世俗の象徴であり、「悪魔の楽器だ」と宣教師から教えられ、教会堂に置くことさえ許されていなかった時代であったので、初めてギターで賛美ができたというだけで、相当なインパクトとなっていった。実際は福音派系の教派、教会での夏のキャンプが発信地となり、彼の作曲、編集した「ゴスペルフォーク」が広がっていった。

 
 この「ゴスペルフォーク」を受けて、1974年に持たれた第一回伝道会議の音楽部門は大きく揺れたようである。この伝道会議の音楽部門の分科会には、山内修一師自身は出席されなかったが、この分科会が、第一回日本伝道会議のなかで最も熱のこもった分科会となった。山内修一師は神学校を卒業した献身者であったので、「友よ歌おう」の分冊が何集も発行されているなかで、ご自分の教会音楽に関する考え方もそこで広めていった。彼の文章を読んでいくと、ゴスペルフォークというのは、福音唱歌と同じ「伝道音楽」であると位置付けている。

 つまり「ゴスペルフォーク」の歌詞は人に向けてのメッセージであり、伝道のために音楽を用いるという熱心が彼の運動を支えたのである。確かに人に向けてのメッセージとしての賛美に対するまわりからの批判はかなり激しいものであったが、ただ人に向けてのメッセージを含む賛美も詩篇の多様性のなかに十分含まれるという意味で、十分に「ゴスペルフォーク」も「ゴスペルヒム」も賛美歌であることを主張できるとは思う。この「ゴスペルフォーク」を一番批判した流れが「聖歌の友」の流れであったが、彼の言葉を借りれば、「ゴスペルフォーク」も「聖歌」も、同じ「伝道音楽」だったのである。私もそう思う。

 実は、この「ゴスペルフォーク」「聖歌」の流れへの反動が1980年代後半に起こった、ペンテコステ・カリスマ運動から生じたワーシップソング運動であった。ワーシップソングを導く音楽家たちは日本の福音派が伝道音楽に終始していたことに対して反旗を翻したとも言える。

 また私たちがゴスペルフォーク「友よ歌おう」を歌っていた頃、関西ではオレブレミッション、独立ペンテコステ系のグループのなかで、「みことばソング」なるものが歌われていた。これらの賛美は聖書の言葉をそのまま歌にするそのような賛美の流れであった。「心のなかにメロディを」という歌集などが発行され、後にはこの流れは、小坂忠師のミクタムの賛美の流れにも繋がっていったように思う。

 1970年頃は「福音唱歌」を推進する「聖歌の友」のグループは、新たな聖歌である青年聖歌を発行していった。これは青年たちが安易な「ゴスペルフォーク」なるものになびかぬようにとの意識のもとに作られたものであったが、実際は普及の面では「ゴスペルフォーク」のほうに軍配があがっていったように思う。「青年聖歌」を発行した「聖歌の友」の流れは厳密な日本語のアクセントに拘り過ぎた。もしかするとこのアクセントへの拘り過ぎが青年への普及に向けての高いハードルとなったのではないかと思われる。

 私は、この頃、音楽を捨てて、献身者として、東京基督教短期大学に入学したのであるが、そこで待っていたのが、再び教会音楽であった。一年生のときに三谷幸子女史の聖歌隊の授業を受け、後に聖歌隊が選択科目になっても、他の生徒たちと共に選択し続けた。私の記憶では東京基督教短期大学の学生のほとんどがこの聖歌隊に所属していたのではないかと思うほどの魅力を持っていた聖歌隊であった。


 三谷幸子先生は聖歌隊を通して、「賛美の精神」を教えようとされた。「教会音楽の精神」ではなく、「賛美の精神」であった。そしてその「賛美の精神」を養うために、地方の教会に宣教旅行するという訓練を頂いた。彼女の賛美に対するそのような霊性は彼女のお父さまである三谷種吉譲りの霊性出会ったように思われる。お父さま三谷種吉(バークレーバックストンの直弟子)は、中田羽後師よりも前に「福音唱歌」を広げようとした日本で最初の音楽伝道者であった。私はメノナイトブレザレンという教団であるが、教団内では経験できない三谷幸子先生を通して、ホーリネス系の三谷幸子女史を通して敬虔主義的賛美の精神を学ぶことができた。

 さて、天田繋氏がこの東京基督教短期大学に来られて教会音楽科が開校されたのが、その翌年、私の二年次であった。私は彼の教会音楽科の最初から受講した。しかし残念ながら、この教会音楽科は10年後に閉校する。後に述べるが、この10年で閉校したことは残念なことであったが、ここで起こったことが、福音派全体の教会音楽に関する重大な論点を提供してくださる形となっていく。この議論については、「礼拝学」の項目で述べたい。この議論を理解している牧師と理解していない牧師とでは教会音楽に対する捉え方が全く変わってくる、それほど重要な論点である。

 天田繋師は、偉大な音楽家・作曲家であったが、ご自分でよく、自分は神学者でないと言われれ神学者の領域には入ることを遠慮されていた。そのようななかで、教会音楽科の天田師以外の教授陣は、別の指導者から神学的なものを学ぼうとしたのである。そのことによりこの教会音楽科は一致が保たれなくなり、10年で終止符を打つようになる。どういう議論であったかというと、簡単に言えば、「絶対音楽があるか」「バッハの音楽は宣教音楽であったか」ということであった。

 しかし、そのように内実は迷走状態にあった教会音楽科であったが、私が入学していた頃は新しいチャレンジングな取り組みがなされていた。その一つで、忘れ得ぬ出来事が、福音派神学校として、最初であり最後の出来事、象徴的な出来事としてのクリスマスコンサートであった。中田羽後氏のゆかりの教会である日本イエスキリスト教荻窪栄光教会で、その教会員である西脇達子氏が独唱し、当時、聖書神学舎の教会音楽科の責任を担い、天田繋氏と教会音楽論で異なる立場に立った岳藤豪希氏の奥様であり東京基督教大学教会音楽科の教授でもあった照子先生がパイプオルガン、東京基督教短期大学聖歌隊伴奏者の一人である私がピアノを演奏させてもらい、指揮者は三谷幸子女史で、「オーホーリーナイト」を共に賛美できたことである。確か、その時の説教者は荻窪栄光教会の森山諭師だったと思います。懐かしい思い出です。私は神学は言葉で説得できる可能性があるが、音楽は言葉で説得できない頑固な分野であることを悟った。それを乗り越えていくにはどうしても聖書からの根拠をしっかと押さえておく必要がある。

 実際1980年代後半より、賛美運動が聖霊運動と合わさって、福音派内に広がっていくなかで、福音派は混乱をきたしていった。教会はどう位置付けたら良いかわからないままに、単に新しいタイプの音楽、伝統的な音楽、という分類程度の整理しかできないままに1990年代の混乱に突入していった。