福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.9

第四章 中世カトリックの音楽
 
 新約聖書の時代の後の初代教父の時代は、ローマ帝国からの迫害のまっただ中であった。迫害を覚悟しつつ、あるときは小声で賛美せざるを得ない状況もあった。しかし、キリスト教の公認時代に入ると状況はがらりと変わる。自由に賛美できる状況になっていくが、早くも教会音楽の面で、体制的な教会の弱点を暴露していくこととなる。

1、ラオデキヤ会議(AD367)

 賛美は「人々」と結びついて歌い継がれていった。このような時期、ラオデキア公会議で、二つの重大な決定がなされた。一つは「礼拝の中において楽器を使用することを禁止する」と言った決定である。もう一つは、「会衆が歌唱することを禁止する」といった決定であった。教会側としては、当時の民衆的賛美歌が手拍子や打楽器などを用いて歌われ、ダンスの要素も濃くなり、それが礼拝に持ち込まれる傾向が起こったことに対する防止策であったと思われるが、その結果、会衆歌唱は疎外され、その後1100年間、宗教改革に至るまで、教会の歌は聖歌隊、つまり専門家が独占するようになったのである。(原恵氏の「賛美歌」より)

 このような重大な決定がなされたわけであるが、ラオデキア会議の前後の賛美の状況は、「霊の歌」に満ちあふれた、いわば賛美運動の頂点とも言うべき時期であった。そのためであろうか、このラオデキア会議の決定の効力はそれほど強くはなかった。ラオデキア公会議よりしばらく経った374年に「賛美歌の父」と呼ばれるアンブロシウスがミラノの司教の任についた。彼は賛美歌唱を芸術的に高めることに努力した有名な賛美歌作者であった。(讃美歌37番B、第二讃美歌96番もアンブロシウスの作)彼は西方教会典礼(礼拝式文)や賛美歌を改革し、その用い方や唱法を発達させ、アンブロジオ聖歌と呼ばれる様式を作りだした。たとえば、「有節賛美歌」も彼から始まった賛美形式である。また彼のもとでは、民衆の歌や音楽共同体も存在したようである。しかし、それも時代とともに解体していく運命にあった。

 このようなアンブロシウスの活躍があったのであるが、ラオデキア公会議の決定は次第に教会全体に浸透していった。その結果、それまでは、聖職者の音楽と世俗の音楽とのあいだに境界線は明確でなかったのであるが、会議後、会衆音楽は、教会音楽から締め出され、その結果、会衆音楽は、世俗音楽として発展していくこととなる。

 このように「人々」から切り離された教会音楽ではあったが、当分の間、教会は初期における音楽観や、初期教会の持っていた力と生命の充実とを、まだ反映はしていたのである。このことは、公会議での決定があまり効力を持ちえなかったこと、またアンブロシウスの活躍やアウグスチヌスなどの賛美観のなかに初期教会の持っていたものが反映されていることから理解できるのである。さて、教会の音楽と世俗の音楽が二分化していったことを図で表しておく。


      教会               世俗

   ラテン語の賛美            自国語の賛美
   歌唱は聖歌隊             歌唱は無規制
   視聴は会衆              視聴は無規制
   音楽は専門化             音楽は大衆化
   芸術性の追求             大衆性の追求