主に対して「あなた」を連発!!

 私が祈りのなかで、主に対して「あなた」を使い始めたのはいつ頃だったでしょうか。私が使用する「あなた」という言葉は、神さまに対してだけです。でも、そんななかで主に対して、「あなた」という言葉で祈っていいのだろうかと思ったりすることがあります。失礼じゃないか、と思って祈るのですが、私は今、祈りに関しては「あなた」と「あなたさま」を両方、探るように使っています。実は、賛美についても、同じような気持ちになってしまいます。この賛美は、「あなた」を多用しています。英語のYOUならばもっと自然だと思うのですが・・・

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「あなた」がない!!

 私は賛美のなかに「あなた」とか「わたし」とか、をもっと躊躇なく入れるべきだと思っているものです。神さまと私、神さまと私たちとの関係性を表現できるのは、やっぱり「あなた」とか「わたし」だと思うからです。ただ日本人は「あなた」と「わたし」を使い慣れていないのでしょうね。昔からの讃美歌集、伝統的な讃美歌集には「あなた」がほとんどありません。上の立場の方に対して「あなた」はちょっと言いにくいからだと思いますし、歌の美しさ、芸術性を追求するなかで無理が生じたのでしょう。もっと別の言い方があればよいのですが、別の言い方がなかなか見当たらないままに、今日まで来てしまったような感じがしています。日本基督教団の讃美歌などは、もともと天皇様に使用された言葉を神さまに向けて使用するような経緯があったように思われます。ですから、神さまに対して「あなた」はないだろう、慣れ慣れしいのではないか、失礼ではないか、というものがあるのでしょう。と言って「あなたさま」なんて長い言葉にしてしまうのも変だし・・・それに対して、躊躇なく、「あなた」と「わたし」を自然に使おうとしているのが、ワーシップソングです。やっぱり、コンテポラリーミュージックの翻訳物は「あなた」と「わたし」が頻繁に用いています。それが魅力だと思います。よく若い人たちの音楽がどうのとか、伝統的な音楽がどうの、とか、分けてしまっているようですが、私はどちらかというと、こちらのほうに課題があるように思ってしまうのです。面白いのは、中田羽後先生の聖歌には、「あなた」という言葉はほとんどありませんが、「あなた」が使用されている場合は、神さまに対してではなく、人に対しての「あなた」になっています。中田羽後先生の現代訳に使用されているかなりインパクトがある「あなた」です。もともと「おりかえし」つき福音唱歌を導入した「聖歌」は伝道的なメッセージソングなのですが、伝道される側に対して「あなたの罪過ちは始末されておるか」とか「あなたの持てる悩みは解決されたか」とか、「あなたがたによくよく言っておくが誰でも信じる者には永遠の命がある」とか、そんなパワフルな伝道メッセージになります。そんなこともあって、私は「あなた」と「わたし」、「あなた」と「わたしたち」をどのように翻訳していくか、それから翻訳物でない日本独自のクリエイティブなものが出て来ないだろうか、そんなことを期待しています。賛美はすばらしい賛美が出てきたらそれを歌う共同体とか、ムーブメントがあって初めて定着して、歴史を乗り越えていくので、そんなインパクトのある賛美が生まれてきますように。

 

自宅のリードオルガンの上の讃美歌集

 自宅のリードオルガンの上の讃美歌集です。ここにはない聖歌総合版は二冊とも、私が牧会している広島北キリスト教会に持って行っています。聖歌総合版には便利なギターコードがふってあるので、教会の音楽好きの若者(若者と言いましても50代)向けにあちらに備えています。

 

 そういえば、MBで公式に採用している「新聖歌」はここにないなあ。この写真は、リードオルガンの上の讃美歌集の写真なのですが、このリードオルガンは、昔の父が牧会していた玉川キリスト教会のオルガンで、私は中学生の時からこのリードオルガンで奏楽していました。それが、今は両親が住んでいた自宅が自宅となり、両親が召された後は、引き継がれたわけです。私がこのオルガンで弾き始めたのは中学生の頃でしたが、教会に置いていたのはもっと前ですから、もう60年間になるか、なんとなく意識しながら、歩んできたリードオルガン、ということになります。修理をしてもらったのですが、完全に元通りにはなりませんでした。でも60年共に生きてきたリードオルガンを楽しんでいます。

 

 私の讃美歌の歴史は、母の歌う「リバイバル聖歌」宣教師の歌う「勝利の歌」礼拝での「聖歌」、日曜学校の「救いの聖歌集」とその後の「ふくいんこどもさんびか」中学生になると、「友よ歌おう」の各巻、そしてカリスマ運動の「心の中でメロディーを」、その頃からの様々なゴスペルフォークの讃美歌集、そして小坂忠の初期のみことばソング的なもの、そして、「友よ歌おう」運動に危機意識を持つ、聖歌の友の群れの「青年聖歌」、それから、メッセンジャーズとか、ニューライフのカセットテープのものをよく購入しました。そして神学校に入ると、今までの聖歌の世界から讃美歌の世界に入ることになります。東京基督教短期大学のチャペルは「讃美歌」でした。「讃美歌」がとても新鮮でした。おそらく、日本中で、あのように大声で讃美歌を大合唱するチャペルはなかったことでしょう。讃美歌にパワフルさを感じました。

 

 そして三谷クワイヤーとの出会いがあり、三谷幸子先生が翻訳した歌を歌う感動した3年間を味わいました。新しいタイプの歌を歌う時代に、もう一方で、三谷幸子先生は、旧讃美歌の合唱を歌わせてくれました。今でも旧讃美歌の合唱をもう一度したいと気持ちになります。そしてMBに帰り、礼拝では聖歌を歌い、ワーシップソングを歌うことへの批判などがあったのが、1980年代終わりの頃でした。でも次第にワーシップソングも諸教会に定着していきました。1990年代、新しい賛美運動が聖霊運動と合わさって展開された時代でした。MBでは、福音派諸教会が、聖歌から新聖歌に変わっていくことを受けて、同じように新聖歌に変わっていきました。新聖歌は讃美歌と聖歌の合体本ですが、時代の変化とともに、今度は、福音派も教会福音讃美歌の教会、新聖歌の教会、讃美歌の教会、聖歌総合版の教会など、色々使われるようになり、また前のスクリーンに歌詞を映し出す教会も増えて、様々な讃美歌集の枠組みを超えたアプローチがなされる時代になっていきました。また伴奏者がいない教会ではヒムプレイヤーを用いたり、ユーチューブで会衆賛美ができるようにしてくれている教会があったり、時代はどんどん変わってきました。私は2000年までは、讃美歌集を作る夢を持っていましたが、ある時点で無理だとわかりました。しかしこのブログは「讃美歌集を作るための奥の部屋」ということで続けている次第です。

 

AIの助けで歌を作ることについて

 音楽に感動されたお年寄りの方から、「この歌は誰が歌っているのですか」と問われました。「誰の声ですか」と。自然な反応だと思いました。そうなんです。私たちは「人格」「人格関係」を求めているものだからです。歌っている方が一体誰なのかを求めるのは当然のことです。そこで、AIなんですと言いにくいのです。私が作詞した曲ですから、本当は私が歌いたいのですが、私が歌えないので、AIに歌わせているのですということが精一杯の弁明になります。私が感動した言葉をAIの助けで感動的な歌にしている段階はまだいいと思います。でも、非人格のAIが勝手に神さまに賛美していく時代になったとしたら、そのときは、AIよ、さよなら、と言わざるを得ない状況になることでしょう。そんなことを思いました。

 

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AI作曲

最近、私はAI作曲をSUNOを触りながら確かめています。どんなことができるのだろうか、皆さんはどんな反応をされるだろうかと思いながら試しています。一つは私の作詞を用いて、作詞以外のすべてをAIに託して歌を作ってもらう方法、もう一つは私の作詞を用いるのですが、別に私の歌詞をAIがもっと曲に合う言葉に変えて歌を作ってもらう方法、もう一つは私の歌詞ではなく、感銘を受けた歌や詩を歌にしてくださいと入れるだけで歌を作ってもらう方法です。このブログを見ておられる方々は礼拝学の視点で見ておられる方々が多いと思いますが、どちらかというと、礼拝学の視点では、多くの問題点があります。しかし宣教学の視点なら、AIさんにとりあえず相手につながるための道具としてなら大丈夫か、と思っています。とりあえずAIの動向を肌身で感じ様と思っています。私は依存症の危険を信じている人ですので、「ミイラ取りがミイラになる」のはもちろんのことで、その点でAIは危険だと理解しているつもりです。曲を作るなかで、これは誰が歌っているのですか、という応答がありました。AIが歌っているんですよ、というと不思議な顔をされます。私もわからないままです。歌がコミュニケーションの道具ならば「誰が誰に」ということが最も大切なことなのにもかかわらず、その一番大切なところが落ちてしまうことになるでしょう。ただ歌詞が私の歌詞ならば、とりあえず「私のあなたへの気持ちです」と言うことができます。昔,音楽家の天田繋先生が歌詞がない、歌詞がない、と言われていました。歌詞が貧弱であっても、歌詞があるなら、チャレンジしてみよう、という気持ちです。またご意見があれば伝えてくださるとうれしいです。

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みやこの外の

 私は、教会で、突然、子供の頃の「救いの聖歌集」の歌が60年ぶりに口ずさんでいた。すごいもんだ。この歌、好きではなかった。でも家で家庭礼拝でよく歌わされた。親がこの曲をよく選んだ。それにしても、ずっと歌っていなくても歌詞を覚えている。今日、改めて、作詞作曲が日本人だと気づいた次第である。「救いの聖歌集」が懐かしい。作詞作曲は、聖書図書刊行会から出ていた「説教学」の著者、後藤光三先生だ。これを機に、埋もれた日本人の作詞作曲の名曲を探してみよう。YouTubeの動画は、セブンスデー・アドベンチストのサンライズミニスリーのものだけしかアップされていないのが残念!! でも女の子の澄んだ声!!(追記、後で気づいたのですが、AI作曲を知るようになって、もしかするとこれ人間の声ではなく、作られた声かな? と思うようになりました。

 

ピアニカ牧師

 久しぶりの更新です。私が武庫川キリスト教会32年間の牧会を65歳定年で終え、神さまの憐れみで、昨年の5月から広島北、広島西、周南、の三教会の牧師になっていますが、一つのイメージ作りの一貫として「ピアニカ牧師」ということにしました。ピアニカほど多くの子供たちが音楽教育でお世話になった楽器はないのではないかと思いますが、私の子供の頃は残念ながらピアニカを吹く機会はありませんでした。そのような中、多くの人たちはピアニカは子供の頃の楽器ということで、大人になるとみなさん卒業していきます。それで私として、触ったことのないピアニカを余計に触ってみたくなりました。私のピアニカは歌う楽器としてのピアニカなんです。つまり、私のイメージとしては、鍵盤楽器としてのピアニカというよりも、年齢を経て、声が出なくなる状況の中で、私の喉笛をピアニカと交換した、そんな気持ちで始めました。ですからピアニカは息の楽器ですのでビブラートを大切にして吹くようにしました。また伴奏はすばらしいアレンジで弾いてくださるピアノ伴奏を以前録音したものを持ち歩いて、またいろいろな賛美の音楽をイヤホンで聴きながら、どの楽器とも音色が違うので、それなりに合わせてみたくなるのが魅力です。また鍵盤ハーモニカという言い方があるのですが、私としては、ヤマハの「大人のピアニカ」だけでやっていくつもりで、ピアニカと言っています。

 

 また、ピアニカで説明できるメッセージかあります。それは神の息で人になった私たちを説明するのにふさわしい楽器なのです。また神の息が伝わるパイプがありますか、というアプローチで、福音を説明できるからです。またピアニカには、子供の頃の懐かしい思い出を醸し出すことのできる何かがあるように思います。ただそのまま吹くだけで、子供時代を思い起こすことができます。またビブラートを入れることで、息の動きを表現すると壊れやすい感情の動きを表現できる可能性があります。あと、個人的なことを申し上げますと、年齢を経ていくなかで、これで有酸素運動ができるぞ、というような気持ちです。息の訓練ができるように思います。また私が若い頃に腹式など発声の訓練を頂いてきたものを利用して吹くことができるのです。そう、お腹の動きだけで、ビブラートを表現できる可能性があるのです。これは面白いことです。また「大人のピアニカ」は微妙に音が下がっているような感じがします。ですから、なんとかして、ビブラートや音色を変えることで、ピアノに寄り添うような吹き方を工夫する可能性があるというのも魅力です。そんなことで、ピアニカ牧師でやっていこうと思っています。リードならば、召された両親の家に住んでいますので、足踏みリードオルガンがあるのでこれも魅力なんですが、持っていくことができないので(笑)・・・。