あらゆる文化を一旦、相対化してみたらどうだろうか

 相対化は絶対化があるから必要です。教会音楽はある程度、相対化していかないと身動きできなくなっていくように思います。「この音楽が御心にかなった音楽だ。」「この音楽が最も宣教的な音楽だ。」「この音楽が最も霊的な音楽だ。」「この音楽が最も聖なるものにふさわしい音楽だ。」「この文化の音楽が最もふさわしい。」「この教派背景の音楽が最も正しい音楽だ。」「この楽器は礼拝音楽にふさわしくない。」「パイプオルガンだけが礼拝音楽にふさわしい。」「礼拝にドラムスは絶対にダメ、いやドラムスは絶対に必要・・・。」ある程度相対化した後、もう一度、聖書から引き出されるバランス感覚を身につけていくことが大切なのではないでしょうか。私たちが信じている以上に、聖書には多様な音楽のあり方があるのです。と言いつつも、キリスト教歴史で歌い継がれてきた賛美文化を尊重することを怠ってはなりません。なぜなら音楽は歴史を超えて霊性を運ぶことのできる尊い道具なのですから・・。

「えっ、礼拝学っていう学びがあるんだ!」

 今度「えっ、礼拝学っていう学びがあるんだ!!」というキャッチフレーズで、11月9日(土)福音聖書神学校 のオープンキャンパスのなかで「礼拝と音楽」の公開授業をいたします。1時間半だけですので、興味深いところを触れるだけになるかもしれませんが、「礼拝学」を学びたいという動機づけになる公開授業だと思います。福音聖書神学校は阪急石橋駅降りてすぐの場所にあり、石橋キリスト教会に隣接したMB宣教センターのなかに福音聖書神学校があります。メノナイトブレザレンの教派神学校ですが、教派を超えて聴講生の方々が来てくださっています。

 

 今回の公開授業は、カトリックやルーテルからすれば、多くのプロテスタントは、確かに過去の体制教会の「礼拝学(典礼学)」に関しては遅れているでしょうが、別の論理の「礼拝学」がある、ということを整理してお伝えできればと思っています。そして「礼拝学」を学ぶと、教会の諸問題に対して容易に対応できるという事例をお伝えできればと思います。

 

中田羽後訳で育った自分なんだと改めて思う

 以前の聖歌に比べて、新聖歌は一貫性が乏しく、弛みを感じてしまう。聖歌は中田羽後個人訳の魅力が全体にみなぎっていた。中田羽後個人訳の凄さは、彼の信仰と翻訳の一貫性にあったと思う。彼の信仰と翻訳の一貫性というのは、もちろんのこと彼が親譲りのホーリネス信仰を持っていたこと、「おりかえし付き福音唱歌」を背景としたアメリカのリバイバル運動推進者であったこと、であった。彼のムーディー聖書学院から受けた神学に私たちが反発しようとも、その一貫性のゆえに彼の翻訳は説得力のあるものであった。実際、1960年代〜1980年代、中田羽後個人訳の「聖歌」を導入した福音派の教会が、彼の翻訳の恩恵を受けて成長していったのである。私たちの教団も、聖潔派の同盟である「日本福音連盟」ではないが、「日本福音連盟」の諸教会が全面的に導入しなかった「聖歌」を全面的に導入したのである。「日本福音連盟」が全面的に導入できなかったのは、彼らが戦前からの教会であり、またすでに日本基督教団の讃美歌を使用していたが故に切り替えが困難だったからである。であるから、聖潔派の教会では、夕拝、伝道集会で導入する程度の導入の教会も多かった。最初から中途半端だったのである。

 

 聖潔派はもともと「折り返し付きの福音唱歌」を推進する群のように見えたが、必ずしもそうではなかったのだ。そこには、聖潔派なりの歴史的な事情もあった。聖潔派のルーツはイギリスであり、聖潔派の礼拝学的ルーツを辿るとき、英国国教会に立ち戻ることになってしまう。だから伝道集会は「聖歌」、礼拝は「讃美歌」という形がフィットしたのである。たとえば、英国国教会バークレーバックストンが、アメリカのリバイバル運動(ムーディー)の影響を受けて、来日されたが、彼は「折り返しつき福音唱歌」を推進したが、彼は英国国教会の枠組みは捨てていなかった。ルーツは英国国教会でありつつ、「折り返し付き福音唱歌」を推進する宣教師として、三谷種吉、笹尾鉄三郎にその推進を委ねていくことになる。しかし今の聖潔派の「日本福音連盟」は「折り返し付き福音唱歌」を推進する群ではなくなっている。いや今の聖潔派はあらゆる面で神学の幅が生じすぎて、すでに一つの賛美形体を通すことができなくなっている。「新聖歌」発行は、聖潔派の事情が反映してできた、讃美歌と聖歌の合体歌集であった。最近では、聖潔派のインマヌエル綜合伝道団は穏健カルヴァンの教派とともに「教会福音讃美歌」を作るような状況となっている。

 

 私は「折り返し付き福音唱歌」はアメリカのムーブメントとともに生きた中田羽後だからこそ、あのような一貫性のある翻訳ができたのだと思う。そればかりか彼は日本への文脈化についても巧みであった。聖歌を歌う時、日本の聖潔派の教職・信徒の理想像が明確に脳裏に浮かぶようになるように仕組まれているようにも思う。しかし21世紀になり、クリスチャンの多様性が語られるような時代には、どうしても受け入れがたいイメージも出てきている。もう一人、小坂忠も、そのようなムーブメントとともに生きた音楽家である。彼の歌も彼の背景にある神学、運動、聖霊体験、が一貫していたがゆえに、彼の与えた影響力も大きかった。彼の流れも中田が体験したリバイバル運動の流れであるが、聖潔派から生じた聖霊派の流れであり、そのなかでも自由な動きを推進するフォースクエアーの流れであり、それに沿った超教派的賛美運動の流れであった。

イエスの十字架(聖歌総合版110)

 改めて、中田羽後訳の凄さに圧倒されています。先週、バイクで走っている時に勝手に口ずさんでいました。この曲、一番も二番も三番も、「イエスの十字架」で始まっているのがいい。中田羽後先生が強調したい一番大切な言葉が歌の最初にしっかりと来ているのです。これならば、最初の「イエスの十字架」は絶対に忘れません。最初さえ歌えれば、後は、少しずつ思い出すことができます。それから「イエスの十字架」という言葉は、音の動きが少ないので、歌ではなく、会話のなかでも自然に用いることができるような動きです。もう一つすごいなあと思うのは、三番の最後が「主の十字架は」で閉めているところです。最初は十字架、最後も十字架、なのです。それからこの節も、一オクターブ内で納められていますので、どの調で歌い初めても、最後まで歌い切ることができ、より日常化しやすくなっています。

 

 最初と最後だけ触れましたが、もちろん、どこをとっても、アクセントにこだわる中田羽後師がよくもここまで歌いやすいような言葉を入れ込んでくださいました。私は、中田羽後先生のすばらしい文語体の名訳を大切に残した上で、別に新しい曲をどんどん作っていったら良いと思っているものです。

 

1、イエスの十字架のもとはやすし 砂漠の中なるわが憩い場

激しき日差しとその熱より かくまいて守る我がたてになり

 

2、イエスの十字架の上に仰ぐ 身代わりとなりし神の御子を

心は打たれて言葉もなく その愛のゆえにただひれ伏す

 

3、イエスの十字架を隠れ家とし 御顔の光を絶えず仰がん

この世のものみな過ぎゆくとも 過ぎゆくことなし主の十字架は

力強さと美しさと即興性:天田論文への応答

 今もこの考え方は変わっていません。でも天田先生に反論しているものの、私の考え方の種は天田先生から出たものだと思っています。「音楽に関する前提の多くは文化的に位置付けられている」と信じているのですが、天田先生はこんな話をされていました。どなたかが、昔インドネシアのある部族のなかで、メサイヤを演奏したんだそうです。そうするとみなさんが笑い転げたんだそうです。西洋で育まれてきた優越した文化をどう考えるか、です。また古いタイプの音楽から新しいタイプの音楽までを包括するアメリカ文化をどう考えるか、です。

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R A Cジャーナル 2001年 第10号、9-10 「力強さと美しさと即興性:天田論文への応答


 

賛美のアイデア1・・・福音唱歌の「おりかえし」はもっと本来的ものに戻してはどうでしょうか。

福音唱歌の「おりかえし」は、本来、詩篇の応唱、交唱的な要素が強かったと思います。リバイバル集会、キャンプミーティングなどで、「おりかえし」までは賛美リーダーが独唱し、「おりかえし」から会衆で歌ったりしました。その時、前半を独唱した賛美リーダーは、「折り返し」部分で「女性だけ歌ってください」とか、「交互に歌ってください」とか、いろいろ自由に指示していったのです。福音唱歌は本来はもっと自由なものでした。ですからまだまだ新しく歌い可能性が残されているのです。例えば、「おりかえし」だけを繰り返すとか、いろということもあっても良いのではないでしょうか。それから半音ずつ転調していくのは、コンテンポラリーな賛美歌だけがすることなのでしょうか。私たちはアメリカの古い曲を古い曲と良い、アメリカの新しい曲を新しい曲と位置付けていますが、アメリカの古い曲も、実は、ヨーロッパものに比べるとずっと自由で即興的側面のある賛美歌であったことを忘れてはならないと思います。聖歌の群れがあそこまで讃美歌並みに格調のあるものになったのは、中田羽後師の功績だとは思いますが・・。

福音聖書神学校「礼拝と音楽」 No.31   

12、礼拝における奏楽

 

      1、奏楽とは何か

  オルガンの音が人間の音声に近い音であるということで、宗教改革以降、特別な位置が確立されていくが、聖書のなかに会衆と伴奏者を区別する根拠はない。むしろ会衆と同じ位置で会衆とともに賛美するのが奏楽者と言えよう。

 

      2、奏楽者の資格

信仰的な人・・ 熟練者ほど、信仰・霊性が伴奏に反映するのは当然である。讃美の 内容を理解し心から会衆と共に賛美するのが奏楽者だからである。

 

賜物のある人・ いろいろな奏楽のあり方があるが、会衆賛美に仕えるという精神も賜物である。

 

忠実な教会員・・伴奏の奉仕のためだけに教会に繋がっているという方が会衆賛美をリードしてはならない。

 

 謙遜な人・・・・音楽家気質は愛の精神に反するので注意する。

   

信頼できる人・・約束して決定したら、必ず実行する人であること。

 

 

    3、奏楽者の精神

       

a、十分な練習をする謙虚さ、急に指名されても奉仕する謙虚さ

 (ただし、指名する音楽指導者や牧師は奏楽者の能力への理解が必要)

b、ある時は会衆に従い、ある時は会衆を導き、ある時は会衆と競う。

    (聖会・礼拝・伝道会・男性が多い時、青年が多い時などの区別必要)

c、しかし、会衆全体の霊的流れをつかむときに全ては解決していく。

 (会衆の声や感情の理解だけでなく、神の御心を考え考え演奏する。)

 

    4、前奏について

        

 前奏によって、その礼拝の目指すものを表現することができる。前奏は合図であるが、ファンファーレなのか、それとも黙想支援なのか。礼拝がどこに進むかを規定していく働きをする。リタジーを大切にする教会では、前奏の最初の1音目を大切にする。つまり沈黙の中での一音目である。ただ日本の教会は沈黙を保ち得るカテドラルではない。ただ私たちのような自由教会であっても心がけるべきは奏楽のスピード感は日常生活からかけ離れたものでなければならない。

 

       5、奏楽者の技術

  • オルガン中心に礼拝を導く教会である場合は、教会音楽にふさわしい指使いを身につける必要がある。なぜならオルガンは指を離すと音が切れてしまうので、音を続ける練習がどうしても必要だからである。またオルガンはリズム楽器ではないので、会衆をリードするだけの強い音を出す工夫が必要である。しかし強すぎると会衆賛美の声を消してしまう。音が続くオルガンの音と音が続く人の声はどうしても競合してしまうという難しい領域がある。

 

  • ピアノ中心に礼拝を導く教会である場合は、ペダルの用い方の技術を身につけておく必要がある。ペダルは会衆をリードするための効果的な道具である。ペダルは伸ばす技術よりも切る技術で会衆をリードできるように思う。

 

  • 場にあった奏法を身につける。結局、奏楽は場所に規定されていくものである。会堂の広さ、PAシステムとの関係にも注意していく必要がある。

 

  • 会衆にあった奏法を身につける。未熟な会衆の現実を認めつつ、合わせていく面も必要とされるし、また会衆の倍音効果、男性女性の割合で響いていない音域を耳に聞き分けて即興演奏することも目標としていく。

 

  • 楽器にあった奏法を身につける。あなたの教会はリードオルガンか、パイプオルガンかデジタルコンピューターオルガンか、ピアノか、ギターか、コンピューターか。

 

     6、他の奏楽の可能性

  時代を経て、今やオルガン奏者だけが奏楽者ではなくなってきた。たとえばある教会では、巧みな即興によるピアノ奏楽がなされている。また、ある教会ではあらゆる楽器を動員して、詩篇150篇的な賛美を再現しようとしている。現代ではPAも賛美者チームの重要な位置をしめる。

 

 

リードオルガンの場合

  リードオルガンは、素朴な笛の音が魅力である。足踏み方式で踏み方で微妙な音の表現もできる。外国製品では、鍵盤が平行に移動して、移調が自由自在にできる機種もある。ただ日本では、最近は日本ではほとんど生産されていないで、高価な楽器となっているし、リードオルガン演奏用の奏楽の楽譜も少ない。この素朴な音色をPAの助けで増幅して、非常に効果的に用いている教会もある。大中寅二が霊南坂教会で長い間、リード奏楽を死守したことは有名である。ただ演奏の仕方として我々の声に馴染んで引っ張ってくれるが、会衆にとけ込み過ぎて、リードし にくい面がある。であるから、会衆の音域を避けて、また巧みにリズムに注意して導く技術が必要なように思われる。

 

デジタルコンピューターオルガン

    割合安価でパイプオルガンに近い音を再現できるという意味で注目に値する。パイ プオルガンは音量制限などにも限界があるが、デジタルオルガンの場合は自由自在である。伝統的なオルガン製作の企業が、過去からの特徴的な音を音源化し、その音源を用いて盛んに販売している。

 

パイプオルガン

 リタジーを重んずる教会のシンボル的な楽器がやはりパイプオルガンである。パイプオルガンを購入できないので、リードオルガンを使用したり、デジタルオルガンを使用してきた。しかし、パイプオルガン設置の場合は会堂建築や会堂全体の音響から備えないといけない。それだけでなく、パイプオルガン奏者を備えないといけない。しかしクリスチャンの少ない日本の教会はパイプオルガン奏者を獲得することも困難ことである。ノンクリスチャン奏者に来て頂いたり、今の奏者の次がいないので困っている教会もある。

 

ピアノ

   過去と現在と未来をつなぐ伴奏楽器としてピアノを推薦したい。21世紀日本の現状を考える上で、適用力のある伴奏楽器はやはりピアノであろう。ただピアノで奏楽する場合、適切な楽譜がない。であるからある程度、ピアノで伴奏するための形が必要となってくる。MBにおいてはアメリカ人の宣教師夫人の奏法を体験的に学び、それが継承されてきた。最近は便利な伴奏の形を提供してくれているものがネットから配信されている。「hymnal.net」を推薦する。https://www.hymnal.net/en/homeピアノは会衆賛美をリードすることができ、会衆賛美に仕えることもできる。またピアノを中心に様々な楽器を添えていくことで、会衆賛美に幅が出てくる。

 

コンピューターミュージック

   本来、伴奏は、会衆の歌に合わせたものであるが、会衆が奏楽に合わせるということもできる時代になっている。なぜなら、CCMの特徴として正確なリズムで賛美するという傾向が出てきているからである。日本人がカラオケを歌うのも伴奏者が歌い手に合わせているのでなく、歌い手が伴奏に合わせて歌っている。それで、賛美を最初からプログラムに組み込んで、コンピューターの支援で賛美するということが可能になっている。教会の奏楽部門で欠けたるところをコンピューターの力で支援することも可能である。つまりオーケストラ、バンド等をバックに賛美するという工夫も十分できる。