福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.26
第八章 礼拝学
「礼拝学」は、その名のとおり、礼拝に関する研究をする、キリスト教神学に属する1学科である。しかし、日本においては、自由主義陣営でも福音主義陣営でも「礼拝学」の研究は遅れている。私たちMBも、礼拝学を重んずる教会ではなかったので、歴史の中で執り行ってきた伝統的礼拝式の確立に関心はなかった。しかし自由な形式の礼拝を追求できる私たちだからこそ、「礼拝学」を学ぶことは非常に重要である。「礼拝学」の学ぶための目のつけどころはどこか。礼拝学の難問は何か。それは「公同」(カトリック)とは何かを共に考えていきたい。
1、礼拝の定義
「『イエスキリストにあって人間の魂に向けられた神の行為』と『イエスキリストを通してなされる応答としての人間の行為』という二重の行為のことである。」(メソジスト派のポール・W・フーン)
「礼拝とは『会衆に対する神の奉仕としての礼拝』『神のみ前における会衆の奉仕と としての礼拝』の二重性のこと」(ルター派のペーター・ブルンナー)
「『礼拝こそが救済史の要約であり、礼拝こそが教会を教会そのものとならしめ、教会の自覚を生み出し、教会の本質を告白することを可能にするものであるからこそ』 礼拝とは『普遍的教会の顕現』を意味する出来事なのである。」(ジャン・ジャック・フォン・アルマン)
「礼拝とは、それがいかなる種類や内容をもつものであるにせよ、被造物による『永遠なるもの』への応答のことである」(カトリックのイヴリン・アンダーヒル)
「キリスト教礼拝とは聖なるものの呼びかけ、すなわち、キリストの贖いのわざにおいて最高潮に達した、神の『力ある行為』に対する人間の応答のことである」(ジョージ・フロロフスキー)
「礼拝にける第一義的な主導権は人間の側にあるのではなく、キリストにおいて聖霊を通して働く神の贖いのわざにある」(正教会のニコラス・A・ニシオティス)
2、聖書における礼拝用語
旧約聖書での礼拝行為を表す原語(シャーハーハー)「低くする、拝む、ひれ伏す」は旧約聖書中94回用いられ、「宗教的な崇敬、服従、奉仕の動作の伴った精神」または、「動作、或はその両方で尊敬を表す」言葉である。新約聖書での礼拝行為を表す原語(プロスキュネオー)「崇敬と崇拝のしるしに手に口づけする」は新約聖書中 59回用いられ、動作が伴なう礼拝という意味が(シャーハーハー)よりも目立っている。また「恐れ」を語幹とする(セボマイ)「尊敬する、崇める」と「仕える、礼拝式を行う、ささげものをする」(黙示録7章15節)の意である(ラトリューオー)という原語も用いられている。
3、シナゴグにおける礼拝
ユダヤ教のシナゴグ礼拝がキリスト教の礼拝に影響を与えたであろうことを確認するために次にシナゴグ礼拝の式の内容を列記しておこうと思う。私たちの礼拝の形は多様であったとしてもシナゴグ形式の流れを組んだものであった。つまり私たちがノンリタジーであっても、リタジーの歴史を無視することはできない。
1、シェマーおよび三つの祝福
2、18祝祷
3、トーラー(律法)朗読
4、アラム語への通訳
5、ハフタラー(預言者)朗読
6、説教(律法学者が受け持つ)
7、アロンの祝祷(民数記6章24節)
4、初代教会における礼拝
初代教会の礼拝について、特にリタジーは断片にしか見られない。時代により、地域により、さらに場合によって、違った様式をもっていたであろう。そして150年頃のユスチニアヌスのアポロギア65章によると、バプテスマに続いてすぐに聖餐が行われ、それは日曜の礼拝の主部と頂点を形成している。また67章では神の言葉の礼拝の後で聖餐が守られ、それはイエス・キリストの犠牲の死の記念とされている。そして、ここに最初の、もっともまとまったリタジーが見い出される。
1、使徒書や預言書の朗読
2、司会者の勧告的説教
3、祈り、全員起立
4、平和のキッス
5、パンとぶどう酒が水と共に捧げる
6、これに対する祈り
7、パンと杯の分配、コンミュニオ
シナクシス(紀元150年~200年)
5、宗教改革と礼拝
化体説 |
聖餐が中心 |
聖餐は恵みの手段 |
|
ルター |
共在説 |
説教が中心 |
聖餐は恵みの手段 |
ツウィングリ |
象徴説 |
説教が中心 |
聖餐は恵みの手段でない 説教が恵みの手段 |
上記の宗教改革時における聖餐論争は現在の礼拝に大きな影響を残している。カトリック教会は化体説(司祭が祈るとパンがキリストの体に変わり、ぶどう酒がキリストの血に変わるという説)を主張し、彼等の言う聖餐式を礼拝の中心に置き、(つまりミサ)聖餐なしの礼拝などあり得ぬとする。しかし私達はツウィングリの象徴説を聖書的だと信じ、聖餐式のカトリック的な神秘性を否定し、聖餐式の記念的な意味を重視し、聖餐式を大切にしつつも、神の御言葉が語られる説教を礼拝の中核に置いている。現在日本のどのプロテスタント教会の礼拝もツウィングリの礼拝形式から強い影響を受けている。またツウィングリの若き弟子達はアナバプティズム(私たちの流れ)の源流となっていくが、このツウィングリの礼拝改革の流れを徹底していった人達である。
リタジーとは「礼拝学」の意味である。であるから、礼拝学を学ぶということはリタジーを学ぶということであると理解するのが普通であろう。しかし、そのような理解であると、ノンリタジーの礼拝学などあり得ないということになる。私達MBの流れはノンリタジーの流れであるが、ノンリタジーである私たちも礼拝学をする必要がある。つまりリタジーの伝統を参考にしながら、私達はリタジーの立場ではできない、創造的な礼拝を造り出す必要がある。
さてリタージカルとは具体的にどうゆうことであろうか。形式的な礼拝をしている教会ということであろうか。そうではない。リタージカル礼拝には積極的な意味がある。それをここでまず学んでみよう。リタージカル・チャーチには次の共通する礼拝観がある。白石剛史氏が五点にまとめているのでそれを参考にしたい。
1、受肉の神学 見えない神が見えるイエス様になられたように、見えない霊的なものを見える建物・時間・芸術・香りなどで五感に感じる形で表現する。
2、キリストの事件・・・受肉・受難・十字架・復活が礼拝の中心であり、このようなイエス様の事件を礼拝で再現、再体験する
3、少なくとも1年の見通しをもって礼拝を準備する。つまり教会暦に従って礼拝が計画されます。福音派のようにアドベント、クリスマス、受難週、イースター・ ペンテコステだけではなく、毎週に意味を持たせます。ただキリストの事件を中心に組まれているので、母の日礼拝などは含まない。
4、公同の教会としての礼拝の実践世界どこに行っても、原語は違っても同じ式文と言う公同意識がある。
5、祈りの訓練 祈祷は自由祈祷ではなく成文祈祷。この教会では感情に流されない訓練を受けることになります。上記のリタージカルな教会に対して、私達福音派の教会は次の特徴的傾向を持ちます。(白石剛史氏)
1、説教と聖書朗読中心傾向
2、知的傾向
3、視覚に訴えるものを危険視する傾向
4、聴覚に訴えるものを強調する傾向
5、会衆が聴衆になる傾向
6、礼拝と集会の区別が困難となる傾向