福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.27

7、礼拝の内容

 次にあげる礼拝の内容はリタージカルの教会から意味を抽出したものである。特に、日本のほとんどの教会が影響を受けているツウィングリーの礼拝改革の流れ基づいて、長老改革派教会が提示したものをもとにして、記したものである。私たちはこの意味をどう受け止め、創造的な礼拝をするかを考える必要がある。

 

    1、前奏

 礼拝の前奏はショーファルの機能から生じたものと解するのがふさわしい。つまり、ショーファルが礼拝開始の合図であったように、前奏も礼拝の合図と考えるのが正しいと思われる。また、奏楽は礼拝の定刻に弾き出すのが良いか、それとも、その前に弾き出すのが良いかとの議論があるが、礼拝の合図であるなら、礼拝の前から弾きはじめるのが妥当であろう。日本においては、前奏は黙想の時となっているが、心落ち着けて礼拝に臨むのを奏楽が助けるというのは日本独自のもののようである。

 

     2、招きの言葉

 「招詞」とか「礼拝招致」と言う教会もある。礼拝は神によって招かれて始まるものであるので、これを持って始める。詩篇など2、3節を朗読する場合が多い。この招きに対して、礼拝に招かれた者達は、頌栄をもって、これに答えるのである。ノン・リタジーである私たちの教会では通常、プログラムには入れていない。

 

 

   3、頌栄

 頌栄は、前述したように、招きの言葉に対する答えである。頌栄は、讃美歌というものの基本的性格を教えてくれる。なぜなら、大体、頌栄というのは父と御子と御霊の三位一体の神を讃美するものだからである。アメリカの自由教会では頌栄をプログラムに入れない教会もある。しかし頌栄が意味するのは、我々の教会は公同(カトリック)の教会であり、三位一体の教理においてもぶれることない異端ではない教会であるというサインなのである。

 

     4、聖書朗読

 説教は礼拝の中心であるが、聖書朗読は中心である説教の前座ではない。説教は礼拝のメインエベントであり、ハイライトである。ドイツの教会では、讃美歌は座ったままで歌うが、聖書朗読は、全員立ち上がって、朗読される神の御言葉に静かに耳を傾ける習慣を継承している。また、いざ聖書朗読の時になってから、バラバラと聖書をめくってあちこち捜したりするのは、慎むべきだと注意を受ける場面もあるという。私たちの教会では聖書朗読をどう位置付けるべきだろうか。

 

   5、献金

 神礼拝は、献身において最高潮に達する。この献身のしるし、献身の表れとして献金がある。献身のない礼拝は礼拝とは言えない。啓示とレスポンスが交互になされるなかで礼拝の流れが組まれていくのであるが、献金はどの位置になるか、全体から検討する必要がある。またMBでは献金の前に献金の祈りがなされているが、他派では、献金の後に献金の祈りがなされることが多い。

 

   6、報告

 報告も礼拝の重要な一部であるか否かの議論がある。報告は礼拝の重要な一部であるとする場合、礼拝は、お互いの横の関係を含むべきであるという主張に基づいている。ただ、報告の位置をどうするかを考慮する必要がある。ある教会では説教前に行うが、ある教会は説教後に行う。最近のアメリカの自由教会系の教会では礼拝の前にITを駆使した形での報告がなされている。

 

  7、祝祷

 

         A、「祈り」という理解  

    つまり「閉会の祈り」に相当すると理解する。また「祝福を求める祈り」の短縮形と考えるとよい。これが一般的な理解である。この場合、下から上に向けてなされるものである。

 

         B、「祝福の宣言」という理解   

    神が祭司に命じられた神の祝福の言葉であるとする。祝福は本来「神の民に対する神の祝福の宣言」である。また「派遣の言葉」という意味に解することもできる。この場合、上から下に向けてなされるものである。その場合、司式者は「我ら」というか「汝ら」というか、も掘り下げて考慮すべきであろう。 ※祝祷には、アロンの祝祷(民数記6章24~26節)とパウロの祝祷。(第二コリント13章13節)の両方が用いられる。