福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.5

第二章 旧約聖書の音楽

 もし、聖書が「楽譜つき聖書」であったなら、「誤りのない霊感された楽譜」を忠実に再現するかということに私達の関心が集中したことであろう。しかし、もしそうなら、音楽ほど世界宣教のお荷物となったものはないであろう。なぜなら異文化圏の音楽と、聖書の音楽との摩擦は避けられないからである。神はそのようなことはなさらなかった。神は私達に見える霊感された楽譜を与えてくださったのではなく、前回学んだように人間の中に豊かな想像力をくださったのである。

 今回「旧約聖書の音楽」から何を学ぶべきであろうか。私は何よりも「旧約聖書音楽の多様性」に気づいてほしいと願うものである。同じ神への応答がこれほどまでに豊かに表現されてきたのかという事実をつかんでほしいと思うのである。私達が旧約聖書の音楽の豊かさに深く触れていけばいくほど、私達自身の教会音楽に対するバランス感覚も同時に養われていくであろうことを信じるものである。その理由は教会音楽の絶対化を何としても避けるためである。


1、ユバルの位置

 神は、家庭内殺人を犯したカインの末裔に憐れみをかけられ、彼らに文明形成のエネルギーを授けられた。旧約学者オルブライトは、レメクの三人の子供達が担った役割は、いずれも地上的な人間生活の進歩と文明形成のために基礎的な領域であったと言う。つまり三人兄弟の一人であるユバルが担った「音楽」という領域、もっと広く捉えるならば、「芸術」という領域も、他の二つの領域に劣らぬほどのものであることを私達に教えてくれているのである。であるから、ユバルはそのまま「音楽家・芸術家」だと考えても良いのではないか。このユバルについてカルバンは次のように述べている。
 
 「神がユバルとその子孫とに、比類なき、芸術本能の富を豊かに与え給うた。このような芸術的発明の力は、神の恩恵の最も明白なる証拠である。」

 彼らは「巧みに奏する・・」と言われるごとく、テクニックにおいて比類なき実力を発揮した。彼らにおいて「芸術」と「技術」は一体化されており、回りの誰もが認める芸術の技術者であったのである。

 しかし、彼らのこの側面だけが強調されてはならない。彼らは文明に貢献する芸術家であったのであろうが、同時に神なき芸術家であった。必ずしも文明そのものは悪ではないが、神なき文明は悪がはびこる。残念ながらこの芸術家の家系であるユバルの子孫はノアの洪水で滅びたであろうが(洪水ユニバーサル説)、文明滅亡の直前の彼らは、魔術的なこと、遊戯的なこと、異教的なことを持って人々に奉仕する音楽家達になっていたであろう。そういうわけで悲しきかな、最初の音楽家達は、神礼拝のための音楽家ではなかったのである。私たちはここに、教会音楽とは違う、世俗音楽の起源を見るのである。

2、原始の音楽

 私達が聖書を初めから、丹念に読み進んでも、なかなか賛美らしい賛美に出会えないことに気づく。旧約聖書でありながら、異教の匂いがぶんぶんしているのである。ここで世界共通の「原始の音楽」の特徴について、適切に述べられている文があるので引用してみよう。

 「原始人にとって、自然の音は魔的な存在の声であり、音を出す道具の中には精霊がいると考えられた。音楽や舞踊によって誘導される催眠的恍惚状態は、人間の力を超えたデーモンのささやきによるものと見なされる。音楽によって人はデーモンの世界と関係し、あるいはその世界に足を踏み入れる。反対に音楽はデーモンの世界に対する防御ともなりうる。異なった種類の音楽はそれぞれ異なった種類のデーモンに対応する。ある種のデーモンは自分にふさわしい独自の音楽を持ち、その音楽に操られる。いずれにせよ音楽と舞踊は、魔法や呪術のあらゆる活動において核心的な役割を演じる。」
(「魔的芸術としての音楽」ラインホルト・ハマーシュタイン)

 ヘブル人の音楽は、このような異教的なものとは異なるがゆえに、絶えず異教の音楽との戦いを続けていくことになる。詩篇150篇の賛美は異教を意識しつつ歌われた詩篇であろう。ただ、すべての音楽が神への応答の賛美で、礼拝の賛美であったかというと当然そうではない。なぜなら、歌は個人あるいは共同体にとって生活全体のあらゆる重要な出来事に属しており、また共同体のあらゆる形態には、その共同体の行動や体験に呼応した歌が組み込まれていた。このことは、聖書の全時代を通じて基本的に変わらなかった。それではその実例を数点あげておこう。

 「勝利の歌」   (出エジプト15章)
 「井戸掘りの歌」 (民数記1章17〜18節)
 「嘲笑の歌」   (民数記21章27〜30節)
 「治癒の歌」   (第一サムエル記16章14〜25節)
 「預言の歌」   (第二列王3章13〜20節)
 「都上りの歌」  (詩篇122篇)
 「収穫の喜びの歌」(イザヤ16章10節)
 「あざけりの歌」 (エレミヤ9章20節)
 「葬送の歌」   (アモス5章1〜2節)


3、増大する賛美

 それでは賛美に焦点を絞っていこう。イスラエルの公的賛美の出発点と考えても良いのが、出エジプト15章の賛美である。この賛美は、記述された最初の賛美である。この賛美は、ちょうど、岩から水が吹き出すように突然湧き上がった賛美と言えよう。ここで登場する賛美の言葉は、聖書全体の賛美の御言葉の霊的、神学的源泉になっていく。私達の賛美も、元を辿るならば、ここに到達すると考えても良い。この霊的遺産の重要性がいかほどであるかは、聖書の脚注の引用箇所の広がりから納得できよう。

 出エジプト 15章は、神の水を分けるという御言葉に対するモーセの応答の賛美であり、彼の信仰告白であった。彼の信仰告白である歌詞はそのまま、奴隷時代からの音楽の旋律と組み合わされて、共に歌われたのである。彼の歌詞は会衆の中で交互に歌われ、反復しつつ歌われ、踊りながら歌われたことであろう。なんと、その時、大人の男だけで60万人、合計200万人近くの大合唱であったかもしれない。


4、ダビデのビジョン
 
 ダビデは政治を司る王であったが、芸術家でもあった。なぜなら彼は神殿を建てることは神に許されなかったが、彼は神から神殿の青写真を頭に描く想像力の豊かな芸術家であった。彼は自分の子ソロモンにその実現を託したのであった。彼が芸術家であったもう一つの理由は、彼は楽器製作者であったということである。ここには賛美追求の手を休めないダビデの姿がある。またもう一つの彼が芸術家である理由として、彼の詩篇そのものが最高の芸術作品であったからということであろう。彼の詩篇は後になって、ダビデ個人の詩篇から、共同体の詩篇へと変化を遂げていくが、それは詩篇にとって、何も困難な業ではなかった。現在20世紀における歌集作りは非常に困難を要している。なぜなら、多くの歌には個人から公的なものに移行するだけの霊的、神学的なパワーが小さいからである。彼の霊的遺産である詩篇を用いての神殿礼拝には目を見張るものがある。詩篇ほど、過去の律法に密着し、また、その御業のすべてに正しく応答した詩は他にはない。詩篇は神への応答でありながら、神の御言葉とされたのである。

 またダビデの子ソロモンの時代の神殿奉献式が、父ダビデのビジョンの実現の時となった。4000人の賛美者が、まるで「ひとりのように」一つとなって神に賛美したのである。音楽学者アンブローズはこのような旧約時代の音楽を「ヘブライ人の音楽は芸術ではない。それは神礼拝そのものである」と評しているがそのとおりである。


5、詩篇唱の賛美形式

 それではユダヤ社会において、このダビデ詩篇はどのように歌われていくのであろうか。「ユダヤ民族音楽」の水野信男氏はヘブル人達の賛美の形式の種類は次の4つあったと述べている。

 1、独唱(朗読、・朗唱も)
 2、合唱、斉唱(原始的なものからユニゾンまで)
 3、応答唱(一人対大勢)
 4、交互唱(一人対一人、大勢対大勢)

 そして、この四つに加えて、尚二つの特徴を備えている。それが反復句と投入句である。「詩篇136篇は26節からなっているが、各節の終わりで「その恵みはとこしえまで」というたたみかけが加えられている。このことば、詩文とは一応何のつながりもない反復句である。おそらく、各節の前半が、先唱者か聖歌隊によって、複雑な旋律で歌われたのに対し、これらの反復句は、会衆により、単純な節回しで唱えられたのであろう。」(ユダヤ民族音楽史より)

 私達の賛美する聖歌の特徴の一つに「おりかえし」というものがあるが、上記のようなユダヤ音楽の特徴が事実であったとするならば、ヘブルの反復句は聖歌の「おりかえし」の意味合いに非常に近いものであるということができる。たとえば、聖歌の場合も、サンキーなどが先唱者となり、会衆が「おりかえし」を歌うといった形式のもので、当時、大衆伝道の場でよく用いられた形式である。

 そして、最後に「投入句」について触れている。投入句というのは、ハレルヤとアーメンで代表されるもので、歌の終わりなどに自然な形で「ハレルヤ」とか「アーメン」が投入されたのである。ある場合は歌というよりもかけ声のように投入された。


6、神殿音楽から会堂音楽に
 
 ユダヤの神殿音楽はバビロン捕囚をはさんで、神殿を失うことによって、終わりを告げるのである。彼らにとって、神殿という場が失われることは決定的なことであった。神殿以外で賛美をするにしても、神殿の礼拝経験、神殿礼拝のイメージが土台となり、神礼拝が再現されていたからである。しかし、彼らは自分達の神殿が失われると、神殿イメージを異国の地で現実化させようと努力したかと言うと、必ずしもそうではなかった。詩篇にはこのような歌がある。

 「バビロンの川のほとり、それで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。その柳の木々に私たちは竪琴をかけた。それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって、主の歌を歌えようか。エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右の手がその巧みさを忘れるように。」
 
 もう一つ、ユダヤ音楽が変化せざるを得なかった理由として、神殿音楽は王国時代を経過していくなかで、もうすでに賛美の力を失っていたのである。全盛期はソロモンの神殿完成の時期であったが、あとは下降線を辿る。滅亡時には、どのような礼拝が行われていたか予想することもできない。

 そのようなユダヤ音楽であったが、補囚中に新しい音楽のあり方を神様はお与えくださったのである。それが会堂と共に発達した「会堂音楽」であった。これは「神殿音楽」というものが派手な音楽であったのと正反対で、非常に地味な音楽であった。特徴としては、彼らは神殿音楽で用いられてきたところの楽器使用をすべて控え、無伴奏の朗唱を中心に礼拝を執り行って行ったのであった。


7、会堂における詩篇

 会堂における音楽の無伴奏の朗唱の中心は詩篇唱であった。詩篇唱は、導入部と中間終始部と本終始部が、わずかに旋律の動きを見る以外は、一定の高さで歌詞が読まれるといったものだった。そして、旋律型は節ごとに反復されるので、人々の関心はおのずと唱えられる詩文の方に効果的に集中するわけである。

 詩文の方に効果的に集中されるというような形態は、古代ギリシャ音楽とは異なる特徴であった。日本においては定着しなかったイギリスとのチャントも歌詞集中のために動きの少ない音となっている。その反対に歌詞が限定されていて、音に動きがあれば、音に人々は集中することになる。中世カトリックに見られるユビルスは少しの言葉を非常に長く延ばして、音楽が自由に飛び回るのである。現代の教会音楽の諸傾向もこの視点で観察してみることは大切ではないかと思わされている。

8、第二神殿時に見るレビ人の聖歌隊(「ユダヤ民族音楽史」より)


 ここでレビ人に関することに少し触れておきたいと思う。


 「まず、聖歌隊員は、すべて男性であった。女性は、旧約時代の世俗音楽の世界ではしばしば登場し、主導的な役割を担い、かつ果たしているが、神殿儀式からは除外された。また少なくとも、第二神殿では、構成人数は、最小で 12人の大人の歌い手からなり、場合によって随時増員された。・・・初期の神殿音楽では、ふつう聖歌隊員が自ら楽器を手にして歌ったと思われる。しかし後には、器楽奏者は別にあった。ミショナの口伝集も第二神殿末期の礼拝音楽に触れ、最小数として12人の歌い手と12人の器楽奏者が奏楽していたことを伝えている。ところが、同じタルムードによれば、儀式において声楽と器楽のどちらかがより重要なのかという疑問が、律法博士ラビによって討議され、やがで、声楽が好ましいという決定を見たという。実際、第二神殿末期には、儀式での器楽の役割の重要性は衰え、この結果、大勢の歌い手に対して、少数の器楽奏者が伴奏を受け持つという形が多くなった。この声楽優位の考え方は、神殿崩壊後のユダヤ儀式音楽に反映していくのである。なお、神殿で歌うのは、レビ人の特権のままであったが、器楽の芳はレビ族でない人も器楽を許された。さて、聖歌隊員たちは、おのおの 25歳か50歳まで20年間、神殿の儀式に奉仕した。50歳で引退するという点は、その年代が声質が一般に衰えはじめるころとすれば、とりわけ不思議ではないが、一人前の聖歌隊員になる時期が30歳というのは、比較的おそい年令であり、聖歌隊員が達人と呼ばれたことからすると実際には、その訓練の期間は、きわめて長くけわしいものだったに違いない。口伝でしかも大部の複雑な音楽儀式の式次第と内容全体を暗唱し、すべてのその詳細をマスターするには、彼らは結局、幼少の頃から父たちについて励み、聖歌隊の正式メンバーになる直前の最後の5年間の徒弟の期間で、規定された集中訓練を受けたとみるのが自然であろう。」

※旧約の楽器についての資料

「教会音楽5000年史」       津川主一   ヨルダン社
「旧約新約聖書大事典の〈音楽〉の項」水野信男   教文館
ユダヤ民族音楽史」(写真つき)   水野信男   六興出版
「新聖書辞典〈楽器〉の項」     天田繋 いのちのことば社
「魔的芸術としての音楽」   ラインホルト・ハマーシュタイン