福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.4 (一般芸術と教会音楽の接点を理解する)

 さて教会音楽を学ぶにあたって、まずは「芸術」という用語に触れないわけにはいかない。一般音楽は「芸術」の世界のなかに教会音楽を包括しようとするからである。であるから教会においても、信仰抜きの「芸術」としての教会音楽が、堂々と土足で入って来る。このようにならないためには、どうしても芸術と教会音楽の関係を位置付けておく必要がある。

1、「芸術」とルネッサンス
 まず、芸術は教会音楽の敵ではないかということを伺わせる文章を紹介しよう。音楽美学者である国安洋氏が「芸術」について、次のように言っている文章がある。
「すべての音楽が芸術とみなされたわけではない。従来音楽を拘束していた実用的および倫理的なものから解放されて、固有の自律的価値領域を獲得した音楽が芸術とみなされたのである。」(「芸術の終焉」国安洋)

 結局、ここで述べられているのは、ルネッサンス期において、それまでキリスト教の影響(聖書の御言葉や典礼の歌詞)下にあったものから、音楽が自律したとき、初めて「芸術」という新しい概念が芽生え始めたのだと述べている文章である。「もう我々人類はキリスト教に縛られたくない、音楽は自由に飛び立ったのだ」という意気込みがこの「芸術」という言葉のなかにあったというのである。

2、「芸術」とギリシャ神話
 国安氏によれば、「芸術」という概念はルネッサンス期に始まったと言うことであるが、実際は、この用語の起源は紀元前のギリシャ神話に遡る。当時「芸術」の語源とも言える「ムーシケー」という言葉があった。当時のギリシャ人たちは、芸術活動はムーサイという女神によって導かれてはじめて可能になるのが、芸術活動であると信じられていた。つまり、ムーサイの「通訳者」として生きることが芸術活動であった。この考え方はキリスト教ギリシャ世界に拡大していくなかで、キリスト教に吸い込まれていく。つまり、これがキリスト教に吸い込まれていくなかで、次のように芸術活動を表現できるようになったのである。つまりこうゆうことである。

 ギリシャ世界では、ムーサイの通訳をすることが芸術活動であったが、キリスト教では、創造者の通訳をすることが芸術活動と言うふうになったのである。

 しかし、近世に入ったとき、個の自覚が促され、人間の主体的、能動的な働きが重視されるなかで、「芸術」の制作の源泉は神から人間に移ったかのように芸術家達は振る舞いはじめた。つまり、もう創造主の通訳ではなくなってしまったのである。

 その結果生じてきた新しい「芸術」は、御言葉から離れた自律音楽、純粋音楽であった。次のような変化を見ただけでも、その様子を伺い知ることができる。中世カトリック時代の音楽の主流は、典礼の言葉を伴う「声楽」であった(歌詞は、典礼の言葉・聖書の言葉であったが、その言葉は決まり文句のようになっていた)。だが「何ものにも利用されない音楽」を目標にした自律音楽なるものが形成されていくなかで、次第に音楽の主流は、言葉のない「器楽」の方に移っていった。

3、芸術とは何か。
 このようなことを覚えるとき、教会音楽で「芸術」という用語を用いること自体、躊躇してしまう。一般の芸術においても、「芸術」の定義は多様化し、教会音楽を混乱させる要因になっているのではないか。このような現代だからこそ、私たちは聖書的な芸術の枠組みを設定していく必要があるのではないかと痛感するものである。

 このような状況の中で、私自身、この授業を進めるに当たって、芸術を次のように定義しておき、芸術という用語を用いて混乱することのないようにしておきたい。
 「芸術とは、神の御言葉(上から下)に対して創造的応答(下から上)(神より受けし創造力の範囲内)である。この応答は、永遠の真、善、美、聖、愛のイメージを御言葉の土台の下に追求しつつ応答したものである。また、この応答は応答者である人間の世界像を形作る働きを同時になすことにより、豊かな人間性を形成する。また、神なき芸術が存在することも忘れてはならない。」

 上述した芸術の定義において「創造的応答」という言葉を用いたが、あの創造力豊かな児童文学者であるC・S・ルイスは、「キリスト教と文学」のなかで、クリスチャンにとって創造性とは何かを、次のように言い表わしているので記しておこうと思う。

 「わたしの新約聖書の読み方が正しいとすれば、限定された、比喩的な意味においてさえも、人間には創造性の余地はまったくない。聖書に従うと人間の運命全体はまったく逆の方向にあるように思われる。すなわち己自身であることをできるだけやめて自分のものでない、借り物の香りを身に付けること、われわれのものでない顔を映す澄んだ鏡となるこみとが、それである。・・・著述家は、以前には存在しなかった美とか、知恵を存在のうちにもたらすことができるなどと思い上がるべきでなく、永遠の美と知恵と何らかの反映を具体化することをのみ、心掛けるべきである。・・・クリスチャンはつねにすべての思想、すべての方法について、『これはわたしのものだろうか』でなく、『これはよいものだろうか』と問うだろう。」
 彼の言う「これは良いものだろうか。」ということは、私達がよく使用する「これは聖書的であろうか。」というのと似ている。この基準を越える多様な芸術なるものに我々はやはり警戒せねばならないのではないか。



4、福音派と芸術
 「芸術」の積極的意味づけは、私達の神学においては、現在までほとんど試みられたことはなかった。理由としては、私達が終末意識に立ち、究極的伝道を追求していくなかで、「芸術」論議などする暇もなかった。また少しでも積極的に「芸術」を意味づけしていくにしても「伝道のためにいかに芸術なるものを用いるか」という実際的なこと以上の何ものでもなかった。であるがゆえに、牧師のような立場になると、終末的な意味合いの説教をしていくなかで、積極的に午後の時間を画廊で過ごしたり、夕べには音楽会に行き、妻と音楽を楽しむと言ったことに多少の後ろめたさを伴ったりするような歴史を経てきた。そして、結局は「芸術」によらないでは得ることのできない人格形成上必要な世界像に欠けが生じてしまうことも生じてきたのである。

 福音派全体においても、よく似た傾向は存在している。ある福音派神学者は次のように芸術を理解し、排除している。この方は「真、善、美の三つの概念は起源においてギリシャ的であり、真なるものと聖なるものの概念のみがヘブル的である」と述べているが、果たして、そうなのであろうか。例えば、「美」はギリシャ的な要素であって、ヘブル的な旧約聖書には取り扱われていないのだろうか。決してそんなことはない。神が天地を創造なさったとき「それは非常によかった」と書かれてあるが、「美的な良さ」というものは、その箇所には言及されていないのだろうか。また、私達は有名な旧約聖書の御言葉を忘れていないだろう。「神のなさることは時にかなった美しい。」

 そのようななか、福音派内においては、改革派神学が「一般恩恵」という考え方のもとで、芸術を積極的に捉えてきた。通常、芸術家たちは、改革派神学のルーツであるカルヴァンに対して良い評価を下していない。なぜなら、カルヴァンは礼拝における芸術の導入には非常に消極的だったからである。しかし彼の世界観には、「芸術」が位置づけられていた。カルヴァンの流れに生きたアブラハム・カイパーという著名な神学者は次のように語っている。

 「神のイメージを身に帯びている者として、人には美しいものを創造し、それを喜ぶ能力が与えられている。・・・多様な音の世界、様々な形の世界、いろいろな色彩の世界、種々の詩的観念の世界は神以外に源泉を持ち得ないのである。この美しい世界を知覚し、その美しい世界を芸術的に再現し、人間らしく味わうこと、そのことは神のイメージを身に帯びた者として創造された我々の特権である。」

5、なぜキリスト教に芸術が
 福音派とか自由主義とか一般恩恵とか言う前に、キリスト教の歴史全体で考えていくならば、キリスト教こそ、長い歴史の中で、世界で最も「芸術」(芸術観が混乱する現代における広い意味での芸術家)を愛好してきた宗教であった事実を忘れてはならない。キリスト教歴史において、芸術はいつもキリスト教と強い糸で結ばれてきたのである。これはそれなりの理由があった。

 一つ目としては、キリスト教の教義の多くは歴史の中で音楽や視覚的象徴、また詩や物語の中に秘められてきたことは否定できない。つまり、歴史は賛美歌で教義を教育し、教義で伝達してきたのである。

 二つ目としては、神の御言葉である聖書の多くの部分は文学形式で記されていることから、ある意味では、聖書は神ご自身が造られた「芸術作品」と言えるからである。そして、この芸術作品を読む私達にも、イメージの豊かさを要求される。聖書は読者に物語や人物から真理を読み取るようにイメージを働かせることを歴史の中で要求し続けてきたのである。特に旧約においては「礼拝」についての記述を含め、あらゆる部分にイメージの豊かさが要求され、また「私のイメージを形づくりなさい。」と言う強い神よりの指導を感じる。イメージを働かせるなかに創造的芸術は生まれてきたのである。(例えば、建造物としてのノアのはこぶね、神殿や幕屋など)

 三つ目としては、何よりも、創世記一章の創造の記事に、芸術の根拠が記されているからである。つまり、神は創造者であり、想像者であられるお方だから、その創造者であり、想像者である神の形に造られた私達も創造力を持ち、想像力を持つのである。であるから、私達は神の創造的みわざの協力者となり得るし、ご自身の創造者としての性格を表現することができるという信仰が芸術活動を豊かにした。

 四つ目として、キリスト教の「受肉の神学」である。キリストが無限なる方であるのに、有限なることの地上に降りて来てくださった。形なきものに形が与えられた。つまり、具現化、受肉化の神学が芸術面に光を与えた。私達とは違う「リタジー」を大切にする教会においては、この「受肉の神学」は生命である。キリストの死と復活を如何に芸術的に具現化するかということは、彼らにとっては生命である。その受肉化の努力によって、当然のごとく創造芸術は発展してきたのである。

 そのようなわけであるから、西欧の歴史において1500年以上もの間、キリスト教は創造芸術に重要な影響を与えてきた。そして、かつ芸術の内容となるべきものを提供し続けてきたのである。そしてルネッサンス以降の新しい「芸術」という概念が広がりを見せ始めた頃には、キリスト教は「芸術」に対する統制力を失っていた。そして「芸術」はキリスト教を原動力として成長してきたにも関わらず、現代においては、完全に一人歩きをし始め、芸術を量る尺度なるものは、万とあると考えても良い。

6、芸術と想像力
 聖書の中には「芸術」という用語は一度も記されていない。(当時ギリシャ語には、前述した「ムシーケー」という言葉は存在したが、この言葉は異教色の強い言葉であった。)しかし、クライド・キルビーは「キリスト教的想像力の中で次のように言う。

 「あらゆる芸術家のうちでもっとも偉大な芸術家、あらゆる想像者のうちでもっとも偉大な想像者は「創世記」の冒頭に現れる御方であるということである。」

 神ご自身の尊いイメージのもとに万物は想像されたのである。そして神はまた神の形に似せて造られた被造物である人間にも比類なきイメージをお与えになった。人間という生物は、神様からのイメージを形成していく生物であると言えよう。またこのイメージによって自己の内に世界像が形成され、イメージによって、リアリティの把握がなされていく存在なのである。私たちが描く世界像というのは、決して理論的概念だけで描くことはできない。その多くはイメージを持って構成されていることは疑いの余地がないことである。

 フランシス・シェーファーは次のように述べている。「キリスト教徒の芸術家は空想や想像作用におびやかされる必要はない。・・・・キリスト教徒は、その想像力が星のかなたまで飛んでいく存在なのである。」

7、御言葉と芸術(種のイメージ)
 ここで、私なりに、「芸術」と御言葉との関係を種まきにたとえて、説明してみよう。「芸術」というものは聖書の御言葉という種子に、イメージの息吹きが吹き入れられた結果生ずる果実だと理解してはどうだろうか。この結果、西欧の歴史の中で様々な聖書の御言葉の果実が結実してきたのである。しかし、もし果実である「芸術」が種子である聖書の御言葉との関わりを失い始めたとき、それは危険な芸術に変質する可能性があるのではなかろうか。確かに、結実した芸術から豊かなイメージを頂くことは、有益なことではあるが、そのイメージは、必ずある時点で、聖書の御言葉によって吟味されなければならない。聖書的な吟味なきままで、いたずらに別のイメージの芸術が生み出されていくべきではない。悪の芸術のつぎ木に注意すべきである。たとえば、賛美歌は一つの果実であって、賛美歌から別の芸術が生まれ出ていくことは、時には危険なことであろう。御言葉から賛美歌が生まれるのは良いが、賛美歌から、聖書で吟味されないままに、新しい御言葉が生まれたとしたら、それは問題である。御言葉からシンボルが生まれるのは良いが、シンボルから新しい御言葉が生まれるならば問題である。しかし、歴史は多くの過ちを犯してきた。芸術と言うものは、別の次元の言葉を持ってコミュニケーションする特殊な領域であるから、どうしても治めきれなくなってしまうのである。しかし、芸術家自身が、伝えようとする御言葉のメッセージに忠実であり、文化的なコンテキストとメッセージとの狭間で、痛み、苦しみながら、主に祈るならば、主が必ず新しい芸術の道を開いてくださる。そう信じる者である。