福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.18

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

7、ビクトリア朝(イギリス)

 英国国教会内では、「礼拝する教会(共同体)」としての賛美歌を作ったオックスフォード運動の流れを受けた高教会派、またそれに対して礼拝儀式をそれほど重んじず、非国教会のピューリタン、メソジスト、バプテストなどとも繋がりを持つ低教会派、もう一つは自由主義の影響を強く受けた広教会派、というふうに三つの立場に分かれていった。それ以外に、非国教会でもウォッツ、ウエスレー以降、卓越した賛美作者が登場した。非国教会は、後にアメリカに渡り、創造的な讃美歌を生み出していく。

〈高教会派〉
・サミュエル・J・ストウン(1839〜1900)、新聖歌には讃美歌訳である「いとも尊き」(新聖歌143)が採用されている。聖歌の中田羽後訳「キリストイエスを」(聖歌201)とかなり異なる訳である。この曲は使徒信条を歌にしたもので、この曲は、11番目の「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」の部分である。3節の争いは教会の神学論争をさすと言う。キリスト教の国歌として称えられた教会の歌である。福音主義教会においても、公同の教会意識高揚のために歌われるべき歌であろう。

「キリストイエスを基として打ち立てられしみ教会は、きみが血をもて買いたまいし花嫁たちの集まりなり」2番「ことばにいろに違いあれど、み民の拝む主、ひとりなり、一つに生まれ、一つに伸び、一つに食し、一つに生く」3番「主の教会はこころみ受け、争いにあい、涙すとも、その幻を主はよみして、ついに勝利を与え給わん」4番「この世と天に分かれ住めど、み民はきよき神にありて、共に交わり、共に待てり、キリストイエスの来たる日をば」(聖歌201)


・サバイン・ベアリング=グールド( 1834〜1924)「進め主イエスの」(聖歌300)、入堂行進曲用賛美歌で15分で書きあげたという。新聖歌には採用されていない。当時の教会は、この曲は英国国教会であっても非国教会であっても心一つに一致を歌う曲として、よく用いられた。しかし新聖歌には採用されていない。歴史的平和主義教会としてのメノナイトとしては「兵士」の意味に十分に聖書的説明を加えた上で歌いたい歌である。

・セシル・フランシス・アレグザンダー(1818〜1895)「みやこのそとなる」(新聖歌110)は聖歌をそのまま引き継ぐ。この賛美歌は、教会のひからびたカテキズムに力が注ぐために書かれたものである。

・クリストファー・ワーズワース(1807〜1860)「仰げや輝く」(新聖歌131)、「山の端に日は落ちて」(新聖歌296)。日本の教会で夕拝がどれほどなされているであろうか。夕拝というスタイルがあって、感動を与える讃美歌であるように思われる。

・アラベラ・キャスリーン・ハンキー(1834〜1911)「語りつげばや」(新聖歌434)福音唱歌に含まれるが、賛美歌集にも入れられる程、芸術性が認められる。1 love to tell the story、讃美歌では「いとも賢き」(讃美歌191)となっている。

・フランセス・リドレー・ハバガル(1834〜1912)新聖歌は聖歌時代の「われいのちを」(聖歌157)ではなく、讃美歌の「主は命を」(新聖歌102)を導入する。「私はあなたのためにこの苦しみ受けた。あなたは私のために何をしたか。」とキリストの絵の下に書かれていたのに感動して作られた。「主はわが命」(聖歌313)も有名である。

〈広教会派〉
・ジョン・アーネスト・ボード(1816〜74)新聖歌は讃美歌より「主よ終わりまで」(新聖歌385)を導入、今までの「世にあるかぎり」(聖歌298)は導入していない。この曲は聖公会における子供の堅信礼詩式のために作られた。


〈非国教会派〉
・セアラ・フラワー・アダムス(1805〜48)「主よみもとに」(新聖歌510)、「主よいよいよ近づかん」(聖歌260)、タイタニック号が沈没したとき、クリスチャンたちのグループが最後まで歌った曲として有名である。

・ホレイシャス・ボナー(1808〜89)、スコットランド自由教会の指導者の一人で、聖書預言研究者でもある。彼は後に5大聖歌作家の一人にもあげられた。「見よや十字架」(新聖歌494)、「主よ御手もて」(新聖歌384)、不朽の名作である「疲れし人々来たれ我に」(聖歌224)、聖餐式の歌である「主よ汝が御前に行き」(聖歌210)、「いざ行き働け」(聖歌224)がある。

・エリサベス・セシリア・クレフェーン「99匹の羊は」(新聖歌217)