福音聖書神学校「礼拝と音楽」 No.24

第七章 日本プロテスタント教会音楽史 No.24

 

 日本プロテスタント教会音楽史をどのような観点から学ぶのが良いのであろうか。キリスト教禁制が解けて、開国がなされた時に、日本に訪れた宣教師たちは、アメリカの霊的覚醒運動、敬虔主義の影響を受けたアメリカの福音主義的な宣教師が多かった。しかし、そのようななかで、しっかりと教会に根付いたキリスト教会を作りあげていったのは、横浜バンドの流れ、つまり改革長老の流れであり、現在の東京神学大学の流れであった。この流れはカルビニズムの神学を掲げるものの純粋な福音主義ではなく、準正統主義的な立場で歩んでいく。であるから、他教派の影響もあったのであるが、その流れを強く反映する形で、他の教派を包括する形で賛美歌が編集されていった。そのようななかで、アメリカ生まれの福音唱歌をどう取り扱うかはいつの時代でも大きな課題であった。また社会主義の影響、日本化、土着化の影響なども賛美歌編集に大きな影響を与えていく。戦争時において、天皇を賛美する「興亜讃美歌」が発行されるまでに終戦を迎えることができたことは、何と幸いなことであったか。

1853年 日本で最初に聞こえてきたプロテスタント讃美歌は、黒船でのペルー総督達による「こよなくかしこし」(このメロディーは賛栄で有名)であろう。後にこの船に乗り合わせたゴーブルが宣教師として来日、マタイ伝を訳し、讃美歌も作る。
1861年 ヘボン博士は日本人に西洋音楽を教えたが、当時はなかなか思うように教育できず、「日本人は西洋風の旋律は歌えない」と悲鳴をあげる。
1872年 宣教師会議にて日本語の最初の讃美歌が試訳が紹介される。「エスワレヲ愛シマス、サウ聖書申シマス」
1874年 各地で日本語賛美歌集が発行される。
1881年 長老派・改革派が日本最初の委員会組織で編集された歌集「讃美歌」出版。
1882年 会衆派の諸教会は「讃美歌並楽譜」出版。これは日本で初めての楽譜付きの歌集である。
1884年 メソジスト派の楽譜付き歌集「基督教聖歌集」出版
1886年 メソジストのデビスン師が57577調に合う曲を加えた讃美歌を出版し、古来の伝統旋律を取り入れる。「今様」「数え歌」
1891年 聖公会の「聖公会讃美歌」出版
1894年 長老派、組合派の2派合同讃美歌「「新選讃美歌」出版
1896年 バプテスト派の「基督教讃美歌」出版、山室軍兵師が「救世軍軍歌」を出版
1897年 笹尾鉄三郎が「救の歌」を出版(バックストンが大修正を加えて)
1900年 初めて共通讃美歌「讃美歌」出版。花鳥風月的表現が多く、また福音唱歌がかなり多く採用されたことによって、全般的に叙情的、主観的、日本的な傾向の強い歌集となった。
1901年 三谷種吉師によって「福音唱歌」出版「沖へいでよ」「ただ信ぜよ」「神はひとり子を」はここから出た。聖公会の「古今聖歌集」出版
1909年 中田重治師が「リバイバル唱歌」出版。4重の福音を強調
1920年 三谷種吉師が「基督教福音唱歌」出版。(バックストン師が三谷師に教えたサンキー編の「ゴスペルソング集」による)三谷種吉師が「福音音楽隊」を組織し、福音唱歌の普及に努める。
1922年 「霊感賦」が三谷師により出版。
1923年 中田羽後師が「リバイバル唱歌」を改訂し、「リバイバル聖歌」出版
1931年 讃美歌大改訂 1、日本人の創作曲を加える。2、世界教会的にいろいろな国の賛美を取り入れる。3、翻訳に関してはリアルな表現を取り去る。
4、客観的、聖書的な方向への引き戻しをねらう。
5、社会福音的な賛美を取り入れる。
1943年 「興亜讃美歌」大東亜戦争を「聖戦」とし、当時の国是たる「八紘一宇」(天皇の指導下に世界を一軒の家のようにする)の精神をキリスト教神の国と無理に結びつけたような、本来の讃美歌を著しく逸脱した奇形讃美歌集。
1954年 現行「讃美歌」出版。伝道的な歌や、合唱に適するものは比較的少ない歌集となっている。
1958年 中田羽後師の個人訳である「聖歌」出版
1965年 中田羽後師により「インマヌエル讃美歌集」出版
1964年 「讃美歌第二篇」出版、歌詞主査は藤田昌直、曲主査は奥田耕天
1969年 中田羽後師により聖歌普及のための機関誌「聖歌の友」一号が発行される。
1976年 「ともに歌おう」出版、教団讃美歌委員会が新傾向の讃美歌集として世に問うた。1970年 ゴスペルフォークが若者を中心に普及し始める。山内修一師が「友よ歌おう」を何年にも渡り、発行し続ける。師は「伝道音楽」の重要性を主張し、福音唱歌的な路線で創作活動を続けたが、その「福音唱歌」の流れから強い反発を食らうことになる。福音唱歌が公式的な賛美の域に到達したという理解からであろう。
1971年 日本伝道会議において、「友よ歌おう」をめぐり、議論が分かれる。また、この頃からペンテコステ派・カリスマ派傾向の教派を中心に「御言葉ソング」が歌われるようになる。単純な御言葉そのものに単純なメロディーをつけたものを何度も何度も繰り返すといった歌い方で歌う。この流れが小坂忠氏の初期の賛美活動にも受け継がれていく。
1972年 和田健治師(聖歌の友の後継者)により「青年聖歌」発行。
1980年頃東京キリスト教短期大学音楽科が福音派短大の唯一の教会音楽教育機関として
出発(主任教授 天田繋氏)、同時に、神学舎教会音楽科も出発。
(主任教授 岳藤豪希氏)
1990年 いのちのことば社より「リビングプレイズ」発行。ワーシップング普及を目的にまずテープを中心に販売。小坂忠氏もこれとは異なる方法で、ワーシップソング普及に努める。

1991年 日本伝道会議にて有賀喜一師、天田繋師が発題。「第三の波」等に見られる自由な賛美の流れ(有賀)と、賛美の文化性(天田)の両面が強調された。その後、自由な賛美の流れを強調する聖霊運動福音派を二分していくこととなる。
1997年 「讃美歌21」出版 エキュメニカル的な視野、多文化的な視野。(共同体、平和と正義、人権、被造世界の回復、統合、差別等)NCC系の教会でも以前の賛美歌を使用する教会と賛美歌21を使用する教会、両方使用する教会と分かれていく。
2001年 「新聖歌」出版、日本福音連盟が出版、福音連盟の諸教派のお家事情が反映し聖歌的なものと讃美歌的なものの両方を取り入れた形となる。また中田個人訳の色を薄める方向となる。英国的な礼拝学を視野に入れた聖潔派の伝統に近づけた感がある。
2003年 日本バプテスト連盟が「新生讃美歌」出版。長い時間をかけて試用版の合本として完成させる。アメリカの南部バプテストの色合いと分離の色合いの両面が感じられるが、福音唱歌風の音楽とこの時期の日本バプテスト連盟の信徒が創作した新曲が多数収められた。
2003年 和田健治師の「聖歌の友」によって「聖歌総合版」が出版される。福音唱歌の流れ、中田羽後訳の良訳の伝統に立った歌集に固執したことにより、今後も文語体からの脱却は不可能な歌集となったが、ギターコードなどを入れて、次世代に対するアプローチも行われている。しかし、今回の発行を持って、福音連盟(聖潔派の連盟)とは別の福音唱歌独自路線を明確化させたことにより公同意識を持たせる歌集としては力を失っている。
2006年 「日本聖公会聖歌集」出版
2012年 「教会福音讃美歌」が福音讃美歌協会より出版、推進した中心的な教派は、日本福音キリスト教会連合、日本同盟教団、インマヌエル綜合伝道団。