聖歌総合版を手に取りながら

 聖歌総合版を手に取って見ています。なかなかよくできています。

 私たちの教団は、福音派が新聖歌に乗り替えた時、新聖歌を福音派の公同讃美歌にふさわしいと思っていましたので新聖歌に乗り替えました。私たちの教団も、中田羽後個人訳の世界から共同訳の世界に乗り替えたのです。しかし福音派のグループも一枚岩ではなく、何年か前、教会福音讃美歌を作りました。それも日本福音同盟の大きな教派が中心になって作りました。そのなかにはインマヌエル綜合伝道団ように、新聖歌を使用するべきグループが、教会福音讃美歌の中心グループになって作りました。

 ですから今や新聖歌が福音派の公同の讃美歌とは言えなくなりました。さてこれからどうすれば良いでしょうか。実際、新聖歌は、日本福音連盟に属する聖潔派の教会の事情が生まれたものです。中田羽後師が中心となって聖歌が発行された時、これに飛びつき安かったのが、私たちのような中堅福音派でした。それに対して、昔からの聖潔派は礼拝は日本基督教団の讃美歌から離れることができなかったので、朝の礼拝は讃美歌、夕伝道集会は聖歌という使われ方をしたのです。仕方がなかったことでしょうが、中田先生としては不本意だったと思います。そんな歴史もあり、新聖歌はその問題を解決するために、讃美歌と聖歌の両方のダイジェスト版として発行されたわけです。それが聖潔派の教会において成功したかどうかわかりませんが、新聖歌は、新しい時代の讃美歌というよりも、少し後ろ向きであり、聖潔派事情のなかで生まれたものだと理解すべきだと思います。

 ですから、正直、聖歌総合版を手にとると、ああ完成度が高いと思いました。歴史の長さ、中田羽後を継承することの重さなのでしょう。すでに聖歌綜合版の使用母体は小さくなっていると思いますが、しかしよくできていると思いました。

 そして長年、聖歌で生きてきたものとして、新聖歌に変わって、しっくりいかないところが多々ありましたので、改めて総合番も悪くないなあと思っています。実は、私たちのような自由教会系、再洗礼派系の教会では、新聖歌の背景にある、聖潔派が昔の礼拝学に戻ろうとしている動きに新聖歌はあるように思えて、少し使いづらいところが増えたように思いました。ただ新聖歌も聖歌も敬虔主義が貫かれている歌集ですので、もう少し共同体的な曲があればと思うのですが・・・

  
 また綜合版も、口語訳にするという課題は全然クリアされていません。口語訳にすることの難しいことはわかっていても、もっと新しいアプローチはないものでしょうか。新聖歌も中田羽後師の口語の歌で良いものが導入されていないのが気にかかります。著作権の諸事情があったのでしょうか。

 そんなことを考えながら、教会福音讃美歌はよくがんばって作られたと思います。口語訳の限界、違和感を感じつつも、チャレンジしていく姿勢を感じました。

 さて日本メノナイトブレザレン教団としてどう考えていったら良いでしょうか。1800人の教会員、1200人の礼拝出席者数で新しい歌集に乗り出すことはなかなか困難です。また最近は前のスクリーンに映し出す時代になりましたから、みなさん、歌集を購入しようとしないでしょう。そんななかで讃美歌集を作ることができるのでしょうか。作るならばどんな切り口で歌集を作るべきなんでしょうか。