中田羽後訳で育った自分なんだと改めて思う

 以前の聖歌に比べて、新聖歌は一貫性が乏しく、弛みを感じてしまう。聖歌は中田羽後個人訳の魅力が全体にみなぎっていた。中田羽後個人訳の凄さは、彼の信仰と翻訳の一貫性にあったと思う。彼の信仰と翻訳の一貫性というのは、もちろんのこと彼が親譲りのホーリネス信仰を持っていたこと、「おりかえし付き福音唱歌」を背景としたアメリカのリバイバル運動推進者であったこと、であった。彼のムーディー聖書学院から受けた神学に私たちが反発しようとも、その一貫性のゆえに彼の翻訳は説得力のあるものであった。実際、1960年代〜1980年代、中田羽後個人訳の「聖歌」を導入した福音派の教会が、彼の翻訳の恩恵を受けて成長していったのである。私たちの教団も、聖潔派の同盟である「日本福音連盟」ではないが、「日本福音連盟」の諸教会が全面的に導入しなかった「聖歌」を全面的に導入したのである。「日本福音連盟」が全面的に導入できなかったのは、彼らが戦前からの教会であり、またすでに日本基督教団の讃美歌を使用していたが故に切り替えが困難だったからである。であるから、聖潔派の教会では、夕拝、伝道集会で導入する程度の導入の教会も多かった。最初から中途半端だったのである。

 

 聖潔派はもともと「折り返し付きの福音唱歌」を推進する群のように見えたが、必ずしもそうではなかったのだ。そこには、聖潔派なりの歴史的な事情もあった。聖潔派のルーツはイギリスであり、聖潔派の礼拝学的ルーツを辿るとき、英国国教会に立ち戻ることになってしまう。だから伝道集会は「聖歌」、礼拝は「讃美歌」という形がフィットしたのである。たとえば、英国国教会バークレーバックストンが、アメリカのリバイバル運動(ムーディー)の影響を受けて、来日されたが、彼は「折り返しつき福音唱歌」を推進したが、彼は英国国教会の枠組みは捨てていなかった。ルーツは英国国教会でありつつ、「折り返し付き福音唱歌」を推進する宣教師として、三谷種吉、笹尾鉄三郎にその推進を委ねていくことになる。しかし今の聖潔派の「日本福音連盟」は「折り返し付き福音唱歌」を推進する群ではなくなっている。いや今の聖潔派はあらゆる面で神学の幅が生じすぎて、すでに一つの賛美形体を通すことができなくなっている。「新聖歌」発行は、聖潔派の事情が反映してできた、讃美歌と聖歌の合体歌集であった。最近では、聖潔派のインマヌエル綜合伝道団は穏健カルヴァンの教派とともに「教会福音讃美歌」を作るような状況となっている。

 

 私は「折り返し付き福音唱歌」はアメリカのムーブメントとともに生きた中田羽後だからこそ、あのような一貫性のある翻訳ができたのだと思う。そればかりか彼は日本への文脈化についても巧みであった。聖歌を歌う時、日本の聖潔派の教職・信徒の理想像が明確に脳裏に浮かぶようになるように仕組まれているようにも思う。しかし21世紀になり、クリスチャンの多様性が語られるような時代には、どうしても受け入れがたいイメージも出てきている。もう一人、小坂忠も、そのようなムーブメントとともに生きた音楽家である。彼の歌も彼の背景にある神学、運動、聖霊体験、が一貫していたがゆえに、彼の与えた影響力も大きかった。彼の流れも中田が体験したリバイバル運動の流れであるが、聖潔派から生じた聖霊派の流れであり、そのなかでも自由な動きを推進するフォースクエアーの流れであり、それに沿った超教派的賛美運動の流れであった。