福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.16

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

5、19世紀(イギリス)
 18世紀の非国教会系の人達のペンから賛美歌が泉のようにあふれ出したのであるが、19世紀には、今度は英国国教会の作者達に中心が移り、それまでは教訓的、実用的な面が強かった賛美歌が、文学的にも洗練を加えてきた。

・レジナルド・ヒーバー(1783〜1826)新聖歌では中田羽後訳の「北はグリンランドの」(聖歌527)ではなく、讃美歌のおとなしい訳の「北の果てなる」(新聖歌432)が導入されている。原作者の歌詞を直訳すると、「グリーンランドの氷だらけの山々から、インドのサンゴ礁がある岸辺から、日光が照りつけるアフリカの泉がきらきらする砂の下に流れ込むところから・・」この歌は、レジナルド・ヒーバーが、救霊の熱情を持ってインドに派遣されていく前に作られた歌で、本国で牧会している中での彼の宣教への思いが表現されているところに、この歌の真実味がある。彼は43歳の若さで天に帰っていく。他に歌い継がれている歌に「せいなるかな」(聖歌96)、「たえにくしきあかぼしよ」(聖歌141)がある。


・ジェームズ・モントゴメリー(1771〜1854)親はモラビア兄弟団の牧師であったが、インドに宣教に赴く。それでモラビア派の学校に預けられるが、その生活に耐えられず中退し、作詞だけを喜びとする日々を送る。肉体労働に勤しみ、職を転々。その後も歌詞の内容が革命支持だと疑いをかけられ牢獄されたりもする。彼は作詞だけを喜びとしドラマティックな人生を全うする。400以上の讃美歌を作る。「なやみの日に」(聖歌307)は彼の生き方がそのまま表現されている。他に「あまつみつかいよ」(聖歌144)、「くらきゲッセマネ」(聖歌160)がある。しかし新聖歌には一曲も導入されていない。


・シャーロット・エリオット(1789〜1871)「いさおなき我を」(新聖歌231)「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。」。日本では大衆伝道の招きの歌として有名になっている(本田クルセードの招きで、この歌を有賀喜一師が歌ったことで愛される曲となった)。聖歌の中田羽後訳は「ほふられたまいし」(聖歌271)。


ヘンリー・F・ライト(1793〜1847)「日影は遠ざかりゆき」(聖歌104)自分の人生の夕暮れを予感し、この歌を作る。「私達と一緒にお泊まりください。」(ルカ24章29節)を各節の結びとしている。新聖歌では讃美歌21の「日暮れてやみはせまり」(新聖歌336)が導入されている。過去の讃美歌訳も名訳である。「日暮れて四方は暗く」(讃美歌39)。


聖歌104(中田羽後訳)
1、日陰は遠ざかりゆき 夕暮れははやもせまる
寂しきわれとともに   宿り給えわが主よ

新聖歌336、讃美歌21、218
1、日暮れてやみはせまり わがゆくてなお遠し
助けなき身の頼る 主よともに宿りませ

教会福音讃美歌430(口語化100%)
1、夕闇の迫るとき 頼り行く身を支え
いつまでも離れずに 主よ、共に居てください。

新生讃美歌478
1、日のかげはうすれゆき くらきやみ身をかこむ
助けなきこのわれと ともに存(いま)せ わが主よ

私訳(口語化100%)
1、日のかげ うすれてゆく 暗闇が身をおおう
  寂しい我とともに 居てください、わが主よ