福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.10

第四章 中世カトリックの音楽

2、聞く賛美

 「人々」と教会音楽が切り離されたことによって、「人々」は、教会においては「歌う」賛美でなく、「聞く」賛美を捧げることとなった。歌うことのできる部分は、わずかにアーメン、ハレルヤ唱で声を合わせることのみとなった(時代を経るなかで、アーメン、ハレルヤ唱も工夫が凝らされ、変化を遂げていくが・・・)。しかし、そのような状況下でも、感動を持って「聞く」賛美を捧げたアウグスチヌスの言葉に耳を傾けてみよう。

 「汝の賛歌と聖歌とを聞いて、私はいくたび泣いたことであろう。汝の聖堂に、愛すべき歌声の響くとき、いかに私は動かされたであろうか。かの音はわが耳に滴り、汝の真理はこれとともに、わが心に流れ行った。敬けんの情は燃え、わが涙は流れ、かくてわれは、こころよさの極みにあった。」

 この一節はアウグスチヌスの尊敬する恩師であるアンブロシウスの聖歌を聞いたときの感動を述べたところの著書「告白」からの文である。彼の時代はまだ初代教会的な賛美の霊的遺産が豊かに継承されていた時代であったので、単なるテクニックによる感動ではなく、深い霊的感動を味わうことができたのである。

 しかし「人々」と分離した聖歌隊の賛美にはやはり限界があった。単旋律のグレゴリア聖歌に霊的な生命が欠如していった時に、次第に単旋律のグレゴリア聖歌を脱皮して複雑を要求する傾向が生じてくる。結局、中世後期に至っては、教会音楽は複雑化の原動力として世俗賛美(「人々」の場)のパワーも貰い受けることになるのである。下に記した用語の最初の三つを除いて、四つは世俗音楽の力を取り入れることによって成立したものである。しかし、このような状況になると、音楽的興味だけが先行してしまい、礼拝音楽として必要な簡素さが失われ、また賛美歌としての大切な、内容を歌う歌詞が聞き取りにくいという事態となっていった。

 中世初期のアウグスチヌスは次のように言っているが、果たして、中世後期の音楽は、彼の憂いに答えるものであったのであろうか。「私が歌われる事柄そのものよりも歌う声によって動かされるようなときには、私は罪を犯して罰を受けるべきであると告白し、そのような場合には、歌われるのを聞かなければよかったと思う。」

【メリスマ様式】1シラブルにつけられたメロディーのことで、中世初期に歌われたユビルスもメリスマ様式である。1シラブルに2〜4の音符がある場合をネウマ様式と言う。

【プレイソング】「平らな歌」を意味する単旋律のホモホニック音楽のことでグレゴリア聖歌の別称として用いられる。ホモホニック音楽に対して、発達していくのがポリホニック音楽(多声音楽)である。

グレゴリオ聖歌グレゴリオ聖歌は単旋律聖歌の一種で、無伴奏、斉唱、ラテン語歌詞を用い、近世音楽のように、何調とか、何拍子というのがなく、教会旋法と呼ばれる音組織に基づいて書かれている。

オルガヌム】9世紀頃、もとのグレゴリオ聖歌に対して、4度、5度の平行の旋律をつけ加えた合唱奏法で、最後まで平行で歌うものを平行オルガヌム、厳格オルガヌムと言う。初めと終わりが同音であるが、その他は平行で移動する奏法を斜行オルガヌムと言う。

【トロープス】メリスマに歌詞をつけなおしたことを起源とする奏法で、歌詞を記憶しやすくするためであったと思われる。アレルヤ唱のメリスマに歌詞をつけたセクエンツィア(続唱)はこの一種である。

【ディスカント】12世紀頃、グレゴリオ聖歌の旋律の上につけられた唱法で現代ではソプラノの上につけた装飾的声部を言う用語になっている。

【カノン】今で言う輪唱のこと。声部がずれて追いかける多声部音楽である。カノンはかなり複雑な形のものに発達して、「無終カノン」
「逆行カノン」「謎カノン」などが登場する。

 現代のプロテスタント教会には、リタジー(礼拝学)を重んずる教会、リタジー(礼拝学)を重んじない教会がある。リタジーを重んずる教会の場合、最も長い歴史を経てきたカトリック典礼学を無視できない。しかしここでは典礼学に触れないで500年前のプロテスタント宗教改革における礼拝改革を確認しながら、少しばかりカトリック典礼に触れる程度にしたいと思う。宗教改革と言えば「信仰義認」「万人祭司」だが、しかし、見える宗教改革としては、礼拝改革であった。