共同体を味わう讃美歌の回復とその課題1

 敬虔主義の讃美歌は「我」の讃美歌です。最近は共同体を強調する時代となり、少し「我ら」という歌詞が増えました。しかし問題は、どんな「我ら」か、なのです。敬虔主義的な「我」には確かに力がありました。敬虔主義的な「我」の歌は個人の信仰の情熱がほとばしり出ていますから、確かに力がありました。それに対して「我ら」の曲のなかには、力を失った腑抜けの讃美歌もあります。我々の目ざすは、敬虔主義的な「我」の情熱を内包した「我ら」をどう表現したらよいかということではないでしょうか。
 
 そのようなことを考えるときに、いつも、聖歌にあった「祝福あれ」が消えてしまったのか、考え込んでしまいます。「我らは主にある兄弟なり」あの曲はアメリカ人が伝えてくれた、円になって手を繋いで歌う歌で、集会の盛り上がりのときにちょうど良い歌でしたのに、共同体的だからカットされたのでしょうか。祝福あれということで、賛美ではないと位置づけたからでしょうか。少なからず、MBではフィットする曲でした。