とりあえず自教派のことを考えるなかで

 1950年から自教団がスタートした。宣教師はシンプルな宣教戦略で自教団を発展させた。1970年代に入ると教会成長論で地方教会が成長していった。1990年代に入ると教派を超えて、新しい賛美運動、聖霊運動、韓国、米国からの弟子訓練などが盛んになった。その頃、初期宣教師の帰国に合わせて、アイデンティティーを追求するようになった。しかし、この頃から日本のキリスト教会の減少は顕著になっていた。すでにNCC系は減少していたが、福音派系も、カリスマペンテコステ系も教勢を減少していった。

 さて、このようななかで、我々は何に目をつけるべきか。一般でもライフスタイルの提案をする企業に注目が集まったりしているが、キリスト教会のなかで、それに相当するのが、「霊性神学」であり、「霊性」(ライフスタイル)を伝える最高の道具が「公同讃美歌」であろう。

 通常、「公同讃美歌」というものは「公同礼拝」という場を前提としたものである。しかし興味深いことは、「公同礼拝」で歌われる「公同讃美歌」は、もともと礼拝堂の外で始まり、最終的に「公同礼拝」に吸収されたものだということである。例えば、アメリカ生まれのおりかえし付きゴスペルソング(聖歌)は、キャンプ、路傍、ビリーグラハム大会などの宣教大会で育ち、最終的に「公同礼拝」に吸収されたものである。新聖歌のなかにある「神の国とその義とを」「マジェスティー」も外で始まり、我々の「公同礼拝」に吸収されたものであった。

 それで今、私にとって最も魅力的な「公同讃美歌」とは何かを考えてみた。まず一つは、ある程度ドイツ敬虔主義のライフスタイルを再発見し、歌をできうる限り口語化していきたい。次に、ある程度アメリカ生まれのおりかえし付きゴスペルソングの流れのライフスタイルを再発見しこれもできうる限り口語化していきたい。時代と共に消え去ってしまわないために。

 次に、ある程度、公同化できる1970年以降の新しいライフスタイルの歌を導入していきたい。次に、日本人として作りあげてきた戦前からのライフスタイルを再発見し、讃美歌学的に選別し継承する意義を説明していきたい。「いつくしみ深き」は結婚式を通して日本人の心に定着した歌であり、「きよしこのよる」もクリスマスで広がった歌である。ただここまでのものは、すべてアメリカ文化の影響を受けてきたものが多い。しかし、我々は、これまで頂いてきたアメリカ文化の讃美歌を感謝しつつも、新しいタイプの讃美歌を望む。

 そして、最後に、アナバプティズム的ライフスタイル、である。つまりアナバプティズム的というは、「私」の体験の歌だけでなく、「私たち」の体験の歌を導入していくことである。それも国教会を背景とするような「私たち」ではない共同体的な歌を導入していくことである。ある種の共同体的な歌に対して、これは讃美歌ではないとする考えもあるが私はそう思わない。なぜなら、ほとんどの讃美歌は讃美歌の原型である詩篇の枠内だからである。もしその歌が讃美歌的でなかったとしても歌にすることは悪いことではない。聖歌にあった「祝福あれ」が、新聖歌にはなくなっている。手を取り合って歌うような歌が新しいものにはなくなってきている。聖公会の歌には「わたしたちは一つ」というような歌は残っているのに。

 そして次にアクセントの問題をなんとかして解決していきたい。翻訳物のアクセントの問題をクリアしなければ時代を乗り越えることができないと思うからである。正確な翻訳に至らなくても、全体としては霊性が継承されていくなかで、愛される歌を作り出すことはできないだろうか。

 それから、やはり牧師が好む、牧師が使用しやすい、公同讃美歌がほしい。今日本の福音派には、曲を選択できない牧師の現状がある。公同礼拝には流れというものがあるが、その流れのなかにどのようにして讃美歌を組み込んでいくか、が十分に牧師が検討できていないように思う。わかりやすいところでは、説教の後の讃美歌選びさえ、なかなかしにくいのである。ですから、少なからず、説教の後の曲選びが容易にできる讃美歌集はどうしても必要である。そのためには、分類化が必要である。

 2017年に新しい新改訳聖書ができるが、新しい聖書の言葉使いから、新しい分類化を調べ上げていけたらと思うのだが・・。敬虔主義的福音唱歌はすべて4重、5重の福音に終始するので、どの曲を選んでも問題はない。しかしもうすこし丁寧に選ぶことのできる分類化が必要ではないか。

 次に音楽指導者、若者リーダーが使いやすいもの、となると、やはり、全曲、ギターコードをつけることであろう。それからスクリーンで映し出す形式の公同礼拝が増加してきたことを考慮に入れた讃美歌集が必要であろう。