福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.23

 第六章 20世紀後半(日本) 日本の公同讃美歌集に導入された日本人作の賛美 No.23

 

「天つ真清水」(新聖歌433)永井ゑい子作詞(1866-1928)

「みどりの牧場に」(新聖歌500)藤本伝吉作詞(1867-1935)

「独りの御子を」(新聖歌88)笹尾鉄三郎作詞(1868-1914)

「イエスよ十字架に」(新聖歌101)笹尾鉄三郎作詞(1868-1914)

「今日まで守られ」(新聖歌171)笹尾鉄三郎作詞(1868-1914)

「浮世の友」(新聖歌234)笹尾鉄三郎作詞(1868-1914)

「墨より黒き心なれど」(新聖歌258)笹尾鉄三郎作詞(1868-1914)

「今日まで来たのは」(新聖歌331)笹尾鉄三郎作詞(1868-1914)

「見失せしわが主と」(新聖歌363)笹尾鉄三郎作詞(1868-1914)

「わが主はまことの牧者」(新聖歌384)笹尾鉄三郎作詞(1868-1914)

「神はひとり子を」(新聖歌89)三谷種吉作詞(1868-1945)

「ただ信ぜよ」(新聖歌182)三谷種吉作詞(1868-1945)

「来れよ来れ」(新聖歌186)三谷種吉作詞(1868-1945)

「世の波風いかに荒れて」(新聖歌250)三谷種吉作詞(1868-1945)

「流し給いし」(新聖歌261)三谷種吉作詞(1868-1945)

「見ゆるところによらず」(新聖歌282)三谷種吉作詞(1868-1945)

「望みは失せ」(新聖歌441)三谷種吉作詞(1868-1945)

 

日本の音楽伝道者の草分けで、バックストンの日本伝道隊に加わり、アコーデオンを肩に全国を伝道

旅行した。彼が編集した「基督教福音唱歌」は日本の福音唱歌として最初の本格的歌集であった。

「神はひとり子を」「ただ信ぜよ」が有名である。

 

 

 「罪の闇路に」(新聖歌178)中田重治作詞(1870-1939)

「重荷を負いて」(新聖歌181)中田重治作詞(1870-1939)

「鷲のごとく」(新聖歌348)中田重治作詞(1870-1939)

「神なく望みなく」(新聖歌358)中田重治作詞(1870-1939)

「人に捨てられて」(新聖歌380)中田重治作詞(1870-1939)

「朝日の光は」(新聖歌381)中田重治作詞(1870-1939)

「聖書も時の徴も」(新聖歌462)中田重治作詞(1870-1939)

「山路越えて」(新聖歌507)西村清雄作詞(1871-1964)

山辺に向かいてわれ」(新聖歌299)別所梅之介(1871-1945)

「羊は眠れり」(新聖歌85)三輪源造作詞(1871-1946)、鳥居忠五郎作曲

「主を仰ぎ見れば」(新聖歌199)宮川勇作詞(1889-1945)

「力なる神に向かって」(新聖歌12)中田羽後作詞(1896-1974)

「愛に富む御神に」(新聖歌13)中田羽後作詞(1896-1974)

「ほめよ御神を」(新聖歌14)中田羽後作詞(1896-1974)

「救いをなし給う」(新聖歌19)中田羽後作詞(1896-1974)

「御心を痛め」(新聖歌32)中田羽後作詞(1896-1974)

「それ神はその独り子を」(新聖歌91)中田羽後作曲(1896-1974)

「この国の王は」(新聖歌152)中田羽後作詞(1896-1974)

「主をほめ歌えし」(新聖歌157)中田羽後作詞(1896-1974)

「すべてのも物手を打ち」(新聖歌158)中田羽後作詞(1896-1974)

「御神よわか身は」(新聖歌161)中田羽後作詞(1896-1974)

「感謝いたします」(新聖歌173)中田羽後作詞(1896-1974)

「騒がしき世より」(新聖歌189)中田羽後作詞(1896-1974)

「主よわが心は」(新聖歌193)中田羽後作詞(1896-1974)

「岩にます御神よ」(新聖歌194)中田羽後作詞(1896-1974)

「主は捨て給わじ」(新聖歌205)中田羽後作詞(1896-1974)

「その咎をみな赦され」(新聖歌213)中田羽後作詞(1896-1974)

「主はわが飼い主なれば」(新聖歌305)中田羽後作詞(1896-1974)

「鹿の谷川を」(新聖歌306)中田羽後作詞(1896-1974)

「主は避けどころなり」(新聖歌307)中田羽後作詞(1896-1974)

「君はわが身の」(新聖歌318)中田羽後作詞(1896-1974)

「主よわが罪と汚れをきよめ」(新聖歌379)中田羽後作詞(1896-1974)

「友よ 主の約し給える」(新聖歌412)中田羽後作詞(1896-1974)

「恵み深き御神よ」(新聖歌415)中田羽後作詞(1896-1974)

「村の小さき教会」(新聖歌423)中田羽後作詞(1896-1974)

「御民を戦え」(新聖歌455)中田羽後作詞(1896-1974)

「世びとは敵に」(新聖歌459)中田羽後作詞(1896-1974)

「こは世の末の徴なるべし」(新聖歌460)中田羽後作詞(1896-1974)

「すばらしいものは」(新聖歌476)中田羽後作詞作曲(1896-1974)

「原に若草が」(新聖歌477)中田羽後作詞(1896-1974)

「山は緑」(新聖歌478)中田羽後作詞(1896-1974)

「雄々しくあれ」(新聖歌486)中田羽後作詞(1896-1974)

 

   中田重治の長男で、音楽伝道者となった。ムーディー聖書学院などで音楽と神学を学び、現代の聖歌

   の編集に従事した。彼の代表的な名訳は「キリストには代えられません」であろう。また、子供の歌

   では「ぱらぱらおちる」などもある。一般の歌では「おおまきばはみどり」などが有名である。

 

「馬槽の中に」(新聖歌99)由木康作詞(1896-1985)

「昔主イエスの」(新聖歌146)由木康作詞(1896-1985)

 

 中学三年生の時、最初の讃美歌を作り、その他多くの創作歌と翻訳歌があり、文字どおり昭和期の賛

 美歌世界の一人者である。戦前に個人的賛美歌集「聖歌」(1927年)や訳詞集「竪琴」(1936年)

   を出版、その他翻訳物では「きよしこのよる」が有名。

 

「空の鳥も」(新聖歌289)蔦田二雄作詞(1906-1971)

「罪に汚れしこの身をば」(新聖歌44)山崎鷲夫(1908-1998)

「夕べ雲焼くる」(新聖歌148)森山諭作詞(1908-)

「一粒の麦」(新聖歌387)長島幸雄作詞(1913-1986)

「学ばせてください」(新聖歌287)長島幸雄作詞(1913-1986)、文屋知明作曲

ガリラヤの風かおる丘で」(新聖歌40)別府信男作詞(1913-)

「ああ主の瞳」(新聖歌221)梅田信治作詞(1922-1976)、高田早穂見作曲

「み言葉をください」(新聖歌41)今駒泰成作詞(1926-)小山章三作曲(1930-)

  

「主のみ名たたえ」(新聖歌30)佐藤一枝作詞(1926-)

「良きおとずれ」(新聖歌71)佐藤一枝作詞(1926-)

ベツレヘムよ」(新聖歌90)佐藤一枝作詞(1926-)大竹海二作曲

「心を尽くして」(新聖歌169)佐藤一枝作詞(1926-)天田繋作曲

「栄えに輝くイエス・キリスト」(228)佐藤一枝作詞(1926-)天田繋作曲

「岩なり城なり」(新聖歌288)佐藤一枝作詞(1926

「野の花を見よと」(新聖歌290)佐藤一枝作詞(1926-)

「汝が神はわが神なり」(新聖歌293)佐藤一枝作詞(1926-)天田繋作曲

「死ぬべくば我死ぬべし」(新聖歌294)佐藤一枝作詞(1926-)天田繋作曲

ダビデは野原で」(新聖歌487)佐藤一枝作詞(19「26-)天田繋作曲

「ハレルヤ いざ」(新聖歌491)佐藤一枝作詞(1926-)鶴若茂男作曲

  

「祈りに祈りて」(新聖歌499)土屋富枝作詞

「もしもわたしが苦しまなかったら」(新聖歌292)水野源三作詞(1937-1984

「朝静かに」(新聖歌334)水野源三作詞(1937-1984

 「父なる神」頌栄(新聖歌64)土井康司作詞作曲 

 「GOD BLESS YOU」(新聖歌198)関根一夫作詞、岩淵まこと作曲

「威光・尊厳・栄誉」(新聖歌166)阿内源一作詞作曲

「キリストの愛 我に迫れり」(新聖歌227)山口昇作詞、天田繋作曲

「神さまありがとう」(新聖歌484)木下裕美作詞作曲 大竹海二作曲

「キリストこそまことの平和」(新聖歌351)下川羊和作詞

「野の花を見よと」(新聖歌290)萩生田明作詞 

「主と」(新聖歌431)山森美智代作詞(1961-)、矢島隆行作曲

 

  

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.22

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)No.23

 

12、20世紀後半(アメリカ)

 

   20世紀中期はアメリカの福音唱歌がビリーグラハムの大挙伝道によってより拡大した。しかし一方で、アメリカにおいて1970年以降、福音唱歌の延長線上に様々な新しいタイプの伝道音楽が登場すると同時に、伝道音楽に反発するかのように、カリスマ派を中心にして、ワーシップソングが若者を中心に影響力を伸ばした。一方、自由主義・体制派陣営では、多元文化における文脈化が叫ばれるなかで、世界の異なる文化背景にある讃美歌の発掘がなされていった。しかしわたしたち福音派教会は今も強くアメリカの音楽の影響を受け続けている。新しい讃美、旧い讃美という発想自体もアメリカ発、アメリカというフレームにおける新しい讃美、旧い讃美なのである。

 

 

日本の公同讃美歌集に導入されたワーシップソング、他アメリカ系CCM

「キリストは生きておられる」(新聖歌257)ウイリアム・ガイザー作詞作曲

「救い主は待っておられる」(讃Ⅱ188)

神の国とその義」(新聖歌291)

「この日は主イエスが造られた」(新聖歌274)

「主はまことのぶどうの木」(新聖歌332)

「神の時の流れの中で」(新聖歌333)

「マジェスティ」(新聖歌170)ジャック・ヘイフォード作詞作曲

「スピリット・ソング」(教会福音57)ジョン・ウインバー作詞作曲

                                  「イエスは愛で満たす」(新聖歌208)は別訳

 

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.21

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

10、福音唱歌アメリカ)

福音唱歌の作詞作曲者を5人に絞って記しておく。

フランセス・J・バン・アルスタイン夫人(1820〜1915)
彼女は通称ファニー・クロスビーと呼ばれた。6歳の時に失明し、40歳過ぎから福音唱歌を書き始める。95歳で天に召されるまで6000曲に達する率直で熱誠溢れる賛美歌を書いた。毎週三篇ずつ作詞したと言われる。新聖歌でも聖歌でも24曲導入されている(2.18.24.149.176,184,185,203,242,253,264,266.270,283,323,340.341,367,435,447,451,498,514,518)

・アナ・ウォーナー(1820〜1915)
「主我を愛す」(新聖歌505)日本に最も早く輸入された曲であり、日曜学校の浸透とともに普及した。福音主義信仰の骨格を適切にわかりやすく表現した曲である。下記の翻訳は後の横浜共立女学校校長のJNクロスビー女史の訳であり、試訳の内容は本願寺派のスパイにより今日に伝えられている。(「賛美歌 その歴史と背景」原恵より)

1、エスワレヲ愛シマス サウ聖書申シマス
彼レニ子供中、信スレハ属ス
ハイエス愛ス ハイエス愛ス
ハイエス愛ス サウ聖書申ス

2、エスワカタメニ 天ノ御門ヒラキ
ワカツミユルシ ソノチニヨレリ

3、エス愛スイツモ ワレヨワヒトテモ
ワカ病気助ケニ 御座ヨリ下リ

4、エスワカ生涯中 ワカソバ居マス
ワレ死ヌトテモ ワレヲ天ニトモノウ
(大隈家旧蔵文書による。早稲田大学図書館所蔵)



・アイラ・サンキー(1840〜1908)
福音唱歌の一人者で、ムーディーとともにリバイバルの灯を灯す。サンキーの歌が大衆に親しまれた理由は、やはり単純明快な唱歌調の曲で、ハーモニーもごく単純だからであろう。福音唱歌が大衆伝道と共に歩んだことの象徴的な人物がサンキーであろう。説教のムーディーと福音唱歌のサンキーは二人で一つのように歩み、後の世界的大衆伝道者ビリーグラハムと「キリストには替えられません」のジョージビバリーシェーの組み合わせに類似している。


新聖歌に導入された作曲リスト
「主の声退け」(新聖歌180)
「九十九匹の羊は」(新聖歌217)
「われ贖われて」(新聖歌264)
「高き岩よ」(新聖歌308)
「日ごと主イエスに」(新聖歌312)
「光の高地に」(新聖歌458)


・トマス・オビディア・チズム(1866〜1960)
「主の真実はくしきかな」(新聖歌20)、「心から願うのは」(新聖歌382)など200篇を残す。週刊誌の記者から牧師になり、健康の理由で生命保険代理店を営業しながら200篇の讃美歌を世に出した。この時代の福音唱歌は初期のものと比べて、より半音階奏法など複雑な表現となっている。


・ジョージ・べナード(1873〜1958)
「丘にたてる荒削りの」(新聖歌108)、新聖歌にはこの曲しか採用されていないが、この曲は、福音派の教会では圧倒的な人気の曲で、1960年のある調査では、二位の「いつくしみ深き」をかなり引き離して一位となったとされている。苦学の中でメソジストの牧師となり、300以上の讃美歌を残した。

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.20

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

10、福音唱歌アメリカ)

 教会音楽は宗教改革後、かなりの成長を遂げた。ところが皮肉なことに、宗教改革において、賛美は「人々」によって取り戻されたはずであったのに、再び大衆が教会の高度な音楽から取り残されていくという現実が起こっていく。しかし、そのようななかで、特にアメリカにおいて、教会音楽の大衆化が始まっていく。

 そのような中で登場したのが、「福音唱歌」(ゴスペルソング)である。「福音唱歌」はアメリカの産んだ所産である。ただ「福音唱歌」は教派、神学の立場の違いにより評価はかなり分かれる。その理由は、アメリカにおいて二分した根本主義自由主義の対立と関係がある。つまり、福音唱歌は、根本主義(後の福音派)を背景に生まれてきた賛美なのである。

 この曲を一番先に導入したのは単立・バプテスト系であった。他の教派も少なからず、福音唱歌を自分達の教派の歌集に採用した。そして、戦後、衰えたかに見えたが、アメリカにおいては、今尚、強い影響力を持って、教会を導いているのである。特にアメリカにおいて、福音派が成長したことにより、福音唱歌はなお歌い継がれることとなっている。(後に触れるが、日本においては中田羽後、三谷種吉、笹尾鉄三郎などが広げ、中田羽後編の「聖歌」に多くが納められている)

 アメリカの聖歌学者であるスティーブンスンは次のように評価する。「福音唱歌アメリカが行ったキリスト教歌曲への貢献を代表する特徴的なものである。その率直さが長所なのである。優美さや荘重さなどが感動を呼び起こさないような場合に、福音唱歌が大きな成功をおさめるのである。・・・宗教が、生命を保つために大衆に受け入れられねばならない時代に、そして、宗教が少なくとも選挙民の過半数の投票を獲得しなければならない時代に福音唱歌は不可欠なのである。」

 日本キリスト教団関係の教会音楽史に関する書物には、福音唱歌に関する評価はそれ程高くない。現に日本キリスト教団では讃美歌を改訂する度に、福音唱歌を減らしてきた。辻壮一氏の「キリスト教音楽の歴史」にも福音唱歌についてはほとんど取り扱われていない。しかし、私達MBは、この福音唱歌の影響を受けてきた。なぜならアメリカからの宣教師はこの福音唱歌を持って来日し、宣教を始めたのである。いったいこの福音唱歌とはどうゆうものだろうか。

 福音唱歌は、英語の世界では、ゴスペルソングとか、ゴスペルヒムと言う。19世紀中期になると当時アメリカでも組織され始めたYMCAがリバイバル集会の中心的推進力となっていった。そして、南北戦争(1861〜65)の直後、シカゴYMCA会長に就任したのが大伝道者ドワイト・ムーディーで、同YMCA主事の音楽歌アイラ・サンキーとのふたりは間もなく伝道説教者と音楽伝道者として絶妙なコンビを組み、アメリカはもちろん、イギリスにも名声をうたわれることになる。

 福音唱歌の特徴は、歌詞の面から言えば、率直な表現で個人の救いと、その喜びの証しを歌うとともに、救いの喜びを積極的に世の人々に分ちとうとする伝道精神を歌うものが多い。初期のものは表現が単純であるが、後期にはしだいに精微さを加えてくるのが見られる。福音唱歌の多くは「おりかえし」を持つことが特色で、反復による強調とともに、ソング・リーダーが各節の前半を歌い、会衆が後半のおりかえしを歌うという使い方のために便利な構成である。

 曲の面から言えば、旋律的で、大衆受けのする甘美な、あるいはやや感傷的なメロディーと、軽快なリズムを、単純な和声で支える曲が多い。初期の段階を過ぎると、旋律にも和声にもしだいに半音階的な動きが加わってきて、その点、古典的なグレゴリア聖歌やドイツ・コラール、ジュネーブ詩篇歌などの旋律が、全音階的であるのと対照的である。(原恵氏の「賛美歌、その歴史と背景」参照)

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.19

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

8、19世紀前半(アメリカ)

 アメリカの開拓初期時代はイギリス国教会の「詩篇歌」が歌われていた。そして彼らの音楽レベルは、現在のアメリカの音楽レベルからすると、想像できないような低レベルであった。しかし、それは次第に改善されていき、歌われる讃美歌も、本国イギリスからの影響も遅れつつ受けつつ、詩篇歌だけの時代から、ウォッツ、ウェスレーの曲なども歌われるようになる。19世紀前半はまだ、大挙伝道によるリバイバル運動、日曜学校運動、キャンプミーティングなどはなく、これらの流れが盛んになるなかで、福音唱歌(ゴスペルソング)が登場していく。


・レイ・パーマ(1808〜87)「世をあがのう」(聖歌270)この歌は会衆派牧師レイ・パーマが「優しい気持ちで書きはじめ、涙とともに書き終えた。」とされる。この曲は最初は陽の目を見ることがなかったが、アメリカの聖歌の父と称されるロウエル・メーソンがこの詩を発見し、曲がつけられ、教派を超えて世界に広がっていった。


・ハリエット・ストウ(1812〜96)「しずかに神と」(聖歌100)、ストウ夫人の名は「アンクルトムズキャビン」で有名。

・ジョージ・ダフィールド(1818〜88)「たちあがれいざ」(新聖歌454)長老派牧師


9、19世紀中期以降(アメリカ)

 これまでの賛美歌はピューリタン系の人々が中心であったが、次第に、ユニテリアン系と、自由主義系の人々の賛美歌が登場していくようになる。ユニテリアンはイエスキリストを神と信じていない人たちである。また自由主義系の人々は人間イエスキリストを道徳のお手本として生き、社会を変えていこうとした人たちである。

・ジェームズ・R・ローウェル(1819〜91)「ひかりかくらきか」(聖歌304)ユニテリアン派、初めの歌詞の直訳は「個人にも国にも、正、邪かのどちらにつくか、決断を迫るときがある。」である。

エドマンズ・H・シアーズ(1810〜76)「天なる神には」(新聖歌80)、聖歌では「ふけゆく野原の」(聖歌125)であった。ユニテリアン派牧師であるが後にはキリストの神性を信じるようになる。この曲は有名なクリスチャンキャロルの名曲である。

・ジョン・G・ホイッティア(1809〜92)「めぐみふかき主よ」(聖歌268)クウェーカー派、クウェーカー派は牧師や教会を否定する無制度共同体である。神からの直接の霊的衝動を頂いて祈ることからクウェーカーと呼ばれている。

・フィリップス・ブルックス(1835 〜93)新聖歌は「しずかに眠れる」(聖歌124)を導入しないで、「ああベツレヘムよ」(新聖歌84)を導入している。有名なクリスマスキャロルの名曲である。聖公会司祭で自由主義神学者の名説教家

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.18

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

7、ビクトリア朝(イギリス)

 英国国教会内では、「礼拝する教会(共同体)」としての賛美歌を作ったオックスフォード運動の流れを受けた高教会派、またそれに対して礼拝儀式をそれほど重んじず、非国教会のピューリタン、メソジスト、バプテストなどとも繋がりを持つ低教会派、もう一つは自由主義の影響を強く受けた広教会派、というふうに三つの立場に分かれていった。それ以外に、非国教会でもウォッツ、ウエスレー以降、卓越した賛美作者が登場した。非国教会は、後にアメリカに渡り、創造的な讃美歌を生み出していく。

〈高教会派〉
・サミュエル・J・ストウン(1839〜1900)、新聖歌には讃美歌訳である「いとも尊き」(新聖歌143)が採用されている。聖歌の中田羽後訳「キリストイエスを」(聖歌201)とかなり異なる訳である。この曲は使徒信条を歌にしたもので、この曲は、11番目の「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」の部分である。3節の争いは教会の神学論争をさすと言う。キリスト教の国歌として称えられた教会の歌である。福音主義教会においても、公同の教会意識高揚のために歌われるべき歌であろう。

「キリストイエスを基として打ち立てられしみ教会は、きみが血をもて買いたまいし花嫁たちの集まりなり」2番「ことばにいろに違いあれど、み民の拝む主、ひとりなり、一つに生まれ、一つに伸び、一つに食し、一つに生く」3番「主の教会はこころみ受け、争いにあい、涙すとも、その幻を主はよみして、ついに勝利を与え給わん」4番「この世と天に分かれ住めど、み民はきよき神にありて、共に交わり、共に待てり、キリストイエスの来たる日をば」(聖歌201)


・サバイン・ベアリング=グールド( 1834〜1924)「進め主イエスの」(聖歌300)、入堂行進曲用賛美歌で15分で書きあげたという。新聖歌には採用されていない。当時の教会は、この曲は英国国教会であっても非国教会であっても心一つに一致を歌う曲として、よく用いられた。しかし新聖歌には採用されていない。歴史的平和主義教会としてのメノナイトとしては「兵士」の意味に十分に聖書的説明を加えた上で歌いたい歌である。

・セシル・フランシス・アレグザンダー(1818〜1895)「みやこのそとなる」(新聖歌110)は聖歌をそのまま引き継ぐ。この賛美歌は、教会のひからびたカテキズムに力が注ぐために書かれたものである。

・クリストファー・ワーズワース(1807〜1860)「仰げや輝く」(新聖歌131)、「山の端に日は落ちて」(新聖歌296)。日本の教会で夕拝がどれほどなされているであろうか。夕拝というスタイルがあって、感動を与える讃美歌であるように思われる。

・アラベラ・キャスリーン・ハンキー(1834〜1911)「語りつげばや」(新聖歌434)福音唱歌に含まれるが、賛美歌集にも入れられる程、芸術性が認められる。1 love to tell the story、讃美歌では「いとも賢き」(讃美歌191)となっている。

・フランセス・リドレー・ハバガル(1834〜1912)新聖歌は聖歌時代の「われいのちを」(聖歌157)ではなく、讃美歌の「主は命を」(新聖歌102)を導入する。「私はあなたのためにこの苦しみ受けた。あなたは私のために何をしたか。」とキリストの絵の下に書かれていたのに感動して作られた。「主はわが命」(聖歌313)も有名である。

〈広教会派〉
・ジョン・アーネスト・ボード(1816〜74)新聖歌は讃美歌より「主よ終わりまで」(新聖歌385)を導入、今までの「世にあるかぎり」(聖歌298)は導入していない。この曲は聖公会における子供の堅信礼詩式のために作られた。


〈非国教会派〉
・セアラ・フラワー・アダムス(1805〜48)「主よみもとに」(新聖歌510)、「主よいよいよ近づかん」(聖歌260)、タイタニック号が沈没したとき、クリスチャンたちのグループが最後まで歌った曲として有名である。

・ホレイシャス・ボナー(1808〜89)、スコットランド自由教会の指導者の一人で、聖書預言研究者でもある。彼は後に5大聖歌作家の一人にもあげられた。「見よや十字架」(新聖歌494)、「主よ御手もて」(新聖歌384)、不朽の名作である「疲れし人々来たれ我に」(聖歌224)、聖餐式の歌である「主よ汝が御前に行き」(聖歌210)、「いざ行き働け」(聖歌224)がある。

・エリサベス・セシリア・クレフェーン「99匹の羊は」(新聖歌217)