福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.17

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)


6、オックスフォード運動(イギリス)

 英国国教会内に様々な要素があったことが、このオックスフォード運動によって明瞭になる。英国国教会の枠組みから出たグループが非国教会系であり、彼らは教派を形成し、教派というものは新天新地アメリカに渡っていった。しかし英国国教会の枠組み内にいたグループにも様々な要素があった。。つまり、福音主義的信仰者がそのような福音主義的な讃美歌を作っていったが、オックスフォード運動に関わった人たちは、「礼拝する教会(共同体)」としての賛美歌を作っていった。彼らのなかには、あまりにも典礼を重んずるがゆえに、結果的にカトリックに転向していく人たちも現れるほどのことであった。カトリックへの転向をリードした人物が、ジョン・ニューマン、である。

・ジョン・キーブル(1792〜1866)新聖歌に導入されたのは「来る朝ごとに」(新聖歌27)のみである。以前の聖歌の「ひかりなるきみの」(聖歌103)は導入されていない。「ひかりなるきみの」の直訳は「この魂の太陽、懐かしい救い主よ、身近においで下さるならば、夜ということはありません。地上から黒雲が起こって、おん僕である私の目からみ姿を隠すことがないようにと願います。」

・ジョン・ニューマン(1801〜1890)ジョン・ニューマンはオックスフォード運動の流れに乗ってカトリックに転向していった。聖歌に導入されていた「さびしき夜道あゆむ」(聖歌276)は、今回の新聖歌には導入されていない。直訳すると「恵み深い光よ、暗闇に迷っている私に、どうぞ行く手をお示しください。夜は暗く、私は故郷を遠く離れております。どうぞ行く手をお示しください。遠い景色を見ることを願うのではありません。眼前一歩を踏み出すことができれば沢山です。」であるが、彼の深い霊性が歌われている歌詞である。

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.16

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

5、19世紀(イギリス)
 18世紀の非国教会系の人達のペンから賛美歌が泉のようにあふれ出したのであるが、19世紀には、今度は英国国教会の作者達に中心が移り、それまでは教訓的、実用的な面が強かった賛美歌が、文学的にも洗練を加えてきた。

・レジナルド・ヒーバー(1783〜1826)新聖歌では中田羽後訳の「北はグリンランドの」(聖歌527)ではなく、讃美歌のおとなしい訳の「北の果てなる」(新聖歌432)が導入されている。原作者の歌詞を直訳すると、「グリーンランドの氷だらけの山々から、インドのサンゴ礁がある岸辺から、日光が照りつけるアフリカの泉がきらきらする砂の下に流れ込むところから・・」この歌は、レジナルド・ヒーバーが、救霊の熱情を持ってインドに派遣されていく前に作られた歌で、本国で牧会している中での彼の宣教への思いが表現されているところに、この歌の真実味がある。彼は43歳の若さで天に帰っていく。他に歌い継がれている歌に「せいなるかな」(聖歌96)、「たえにくしきあかぼしよ」(聖歌141)がある。


・ジェームズ・モントゴメリー(1771〜1854)親はモラビア兄弟団の牧師であったが、インドに宣教に赴く。それでモラビア派の学校に預けられるが、その生活に耐えられず中退し、作詞だけを喜びとする日々を送る。肉体労働に勤しみ、職を転々。その後も歌詞の内容が革命支持だと疑いをかけられ牢獄されたりもする。彼は作詞だけを喜びとしドラマティックな人生を全うする。400以上の讃美歌を作る。「なやみの日に」(聖歌307)は彼の生き方がそのまま表現されている。他に「あまつみつかいよ」(聖歌144)、「くらきゲッセマネ」(聖歌160)がある。しかし新聖歌には一曲も導入されていない。


・シャーロット・エリオット(1789〜1871)「いさおなき我を」(新聖歌231)「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。」。日本では大衆伝道の招きの歌として有名になっている(本田クルセードの招きで、この歌を有賀喜一師が歌ったことで愛される曲となった)。聖歌の中田羽後訳は「ほふられたまいし」(聖歌271)。


ヘンリー・F・ライト(1793〜1847)「日影は遠ざかりゆき」(聖歌104)自分の人生の夕暮れを予感し、この歌を作る。「私達と一緒にお泊まりください。」(ルカ24章29節)を各節の結びとしている。新聖歌では讃美歌21の「日暮れてやみはせまり」(新聖歌336)が導入されている。過去の讃美歌訳も名訳である。「日暮れて四方は暗く」(讃美歌39)。


聖歌104(中田羽後訳)
1、日陰は遠ざかりゆき 夕暮れははやもせまる
寂しきわれとともに   宿り給えわが主よ

新聖歌336、讃美歌21、218
1、日暮れてやみはせまり わがゆくてなお遠し
助けなき身の頼る 主よともに宿りませ

教会福音讃美歌430(口語化100%)
1、夕闇の迫るとき 頼り行く身を支え
いつまでも離れずに 主よ、共に居てください。

新生讃美歌478
1、日のかげはうすれゆき くらきやみ身をかこむ
助けなきこのわれと ともに存(いま)せ わが主よ

私訳(口語化100%)
1、日のかげ うすれてゆく 暗闇が身をおおう
  寂しい我とともに 居てください、わが主よ

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.15

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

4、18世紀(イギリス)

 18世紀のイギリスの賛美は、アイザック・ウォッツとチャールズ・ウェスレーを比較することで見えてくる面がある。二人は全く正反対の神学的立場を擁護する賛美歌作者と言えよう。しかし二人には共通点があった。二人とも英国国教会に所属しない非国教会員であったということである。二人が登場した時期はまだまだ英国国教会内では創作讃美歌の意欲が生まれる環境ではなかった。つまり、英国教会内ではジュネーブ詩篇歌に始まった詩篇歌の流れにあったからである。しかし二人は、これまで英国国教会内で歌い継がれてきた詩篇歌からの脱皮を図り、芸術性の豊かな創作賛美を追求していったのである。


アイザック・ウォッツ(1674〜1748)

 彼は、カルヴァン主義的な力強い信仰を表明し、聖書的、啓示的、客観的な讃美歌創作をした。ですから、彼の賛美には、救いを求める呼びかけは乏しい。どちらかというと不義を厳しく罰する神が描かれている。新聖歌には、ウォッツの歌詞の曲は次の9曲が収められている(1.16.106.115,117,118,154,159,297)。聖歌時代からすると4曲ほど減っている。ただ新聖歌は、ウォッツの「いざ皆きたりて」(新聖歌1)で始まっていることに注目したいと思う。しかし私たちが歌い継いでいるウォッツの賛美は、創作600曲のなかの数曲に過ぎない。

 新聖歌は、「栄えの主イエスの」(新聖歌117)で讃美歌訳を導入。聖歌訳は「十字架にかかりし主イエスを仰げば」(聖歌158)。この曲は英語4大讃美歌となっている。「栄光の君がその上で死に給える驚嘆すべき十字架を思い見る時、私は今まで勝ち得た最も豊かな利得をも損失でしかないと考え、また私のあらゆる誇りに対してさげすみの言葉を吐きかける。」(直訳)

「過ぎし世きたる世」(聖歌249)は新聖歌には導入されていない。「神よ、過ぎ去った代々には我々の助けとなった神よ、来るべき年月には我々の望みとなる神よ、あらしの吹きすさぶところから我々を避難させる神よ、またとこしえに我々のすみかである神よ」(直訳)


・チャールズ・ウェスレー(1707〜78)
「ウェスレーの賛美歌はメソジスト神学の教科書」と述べられるほど、カルヴァン主義と明確に区別される。ウォッツのものとは正反対で主観的、個人的、体験的な曲が多い。ですから「我が」が多い。ドイツの教会が冷却正統主義と称される状況になった時、その反動で登場した敬虔主義の影響を強く受け、この流れがウエスレーのメソジストに繋がっていった。現在の日本の福音主義が受け入れてきた賛美の流れとしては、敬虔主義→ウェスレー(イギリス)ー→福音唱歌アメリカ)が奔流ではなかったかと思われる。しかし現在の日本の福音派は教会音楽面でも神学面でもより豊かなもの、多様なもの、になっている。

 今回新聖歌に導入されたウェスレーの曲は11曲で次の通りである。(10、34、79、130、153、211、212、226、276、310、463)聖歌時代より7曲ほど減っている。新聖歌は聖歌の「愛するイエスよ」(聖歌245)を導入しないで、讃美歌の「わが魂を」(新聖歌276)を導入している。「イエスよ、私の魂を愛したもう方よ、寄せ来る波のさかまく間、嵐が尚も激しい間は、み胸に飛び込ませてください。」(直訳)


オーガスタス・トップレイディー(1740〜78)新聖歌は聖歌の「かくせやわれを」(聖歌248)ではなく、讃美歌からのもの、「千歳の岩よ」(新聖歌229)を採用している。トップレイディーは他500篇の讃美歌を創作している。「千歳の岩よ」は「四大英語賛美歌」の一つともなっている。

ジョン・ニュートン(1725〜1807)新聖歌には「かがやくすがたは」(聖歌199)は導入されず、「おどろくばかりの」(新聖歌233)は、聖歌の中田羽後訳を引き継いでいる。もう一つ新聖歌には「御顔を見ぬとき」(新聖歌207)が導入されている。

・ウィリアム・クーパー(1731〜1800)「尊き泉あり」(新聖歌238)が聖歌から引き継がれている。

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.14

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

 プロテスタントの讃美歌の歴史は、ドイツからイギリスに、イギリスからアメリカに移っていく歴史である。現在の日本の福音派諸教会における賛美歌のほとんどは、新しい音楽も古い音楽も、ドイツものでもイギリスものでもなくアメリカの讃美歌の影響下にあると言っても良いだろう。ドイツ時代には、もちろんルターの宗教改革の強いインパクトがあったが、同時に戦争の歴史でもあった。後には冷却正統主義と称されてしまう時代が到来し、その反動としての敬虔主義の時代が到来する。と同時にデカルトスピノザなどの哲学の影響がキリスト教流入し、啓蒙主義が拡大し、キリスト教は一種の哲学のようになっていった。それで当然のごとく讃美歌創作は下火となっていった。一時代に数曲ずつ拾い出してみようと思う。

1、ドイツ30年戦争時代(1618-1648)
パウル・ゲルハルト(1607〜76)、10歳頃に30年戦争に突入し、40歳頃に戦争は終わる。彼はドイツ聖歌作詞家の最高峰と称された。「愛唱聖歌詞100選」(教会音楽研究会発行)のp24-27に詳細の彼の証しが記されている。
「いばらのはりの」(聖歌155)、「血潮したたる」(讃美歌290、讃Ⅱ106、新聖歌114)は、後にバッハのマタイ受難曲に登場する。
「すべてのものの」(聖歌101)この曲はドイツ人が最も愛唱する夜の歌。夜のしじまの中、自らの魂と対話する内省的な歌。

2、ドイツ敬虔主義の時代(1666-)セバスチャン・バッハ(1685-1750)はこの時代である
・フリードリヒ・R・フォン・カーニッツ(1654〜99)
「きたりてたたえよ」(聖歌97)「わが霊、たたえよ」(讃美歌28)曲はハイドンの曲を編曲したもの
・ベニヤミン・シュモルク(1672〜1737)
「主よささぐる」(聖歌296)

・カタリナ・フォン・シュレーゲル(1697〜)敬虔主義的女性讃美歌作者。
聖歌訳では「しずかに待てわがたまよ」(聖歌309)であったが、新聖歌は讃美歌の歌詞である「安かれ わが子よ」(新聖歌303、讃美歌298)を導入。この曲は、後にシベリウスが「フィンランディア」に取り入れる。

3、ドイツ啓蒙主義の時代(18世紀以降)
 先に述べたように、啓蒙主義は讃美歌創作を減らしていった。その結果、この時期の讃美歌として有名なものはカトリックから生じた次の曲である。
・ヨーハン・W・ハイ(1789〜1854)
中田羽後訳の「きよしこのよる」(聖歌148)は新聖歌に導入されず、日本で一般的に普及している賛美歌の由木康訳の「きよしこのよる」(新聖歌77、讃美歌109、教会福音讃美歌93)が導入された。

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.13

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

 ここでは、宗教改革より出発した「賛美歌の歴史」を辿ってみたいと思う。ルター以降の「賛美歌の歴史」とは、ルターの礼拝改革により会衆賛美、自国語賛美が導入された結果、出て来た賛美歌のことである。ルター時代の賛美歌は宗教改革の息吹が力強く反映していたので、やや粗野な表現のものであった。時代を経て、次第に流麗で洗練された賛美歌が多くなっていった。そして、30年戦争の時代にそれが明瞭になり、後の敬虔主義的賛美歌へと繋がっていくのである。このような讃美歌の歴史を探りつつ現代にどのように歌継ぐかを研究する学問が「讃美歌学」である。

マルティン・ルター(1483〜1546)「神はわがやぐら」(新聖歌280)、「みかみはしろなり」(聖歌233)「ドイツ史上最高の時期に、最大の人物が書いた最も偉大な賛美歌」という定評あり。先に述べたように、この讃美歌は、一般の歌謡曲の替え歌である。ルターの宗教改革者としての聖化力がこの讃美歌を歴史に残した。他の替え歌はほとんど歌い継がれていない。誰もが認めるプロテスタント宗教改革の歌である。2017年宗教改革五百年の年に再び、ルターの霊性を復活させてほしいものである。


「神のわがやぐら」の原語からの訳(ウィキペデアより)
1.
私たちの神はかたいとりで
よい守りの武器です。
神は私たちを苦しみ、悲惨から
助け出してくださいます。
古い悪い敵はいま必死にあがいており、
その大きな勢力と策略を用いて
攻撃してくるので
地上の存在でこれに勝てる者はおりません。

2.
私たちの力は無にひとしいのです。
私たちは立ちえません。
けれども私たちに代わって戦ってくださる方がおります。
それは神ご自身が立ててくださった戦士であられます。
そのお名前を尋ねますか?
その御名はイエス・キリストです。
万軍の主なるお方であり、
神ご自身であられるお方です。
主は敵に譲ることはありません。

3.
悪魔が世に満ちて
私たちを飲み込もうとするときも
私たちは恐れなくてもいいのです。
私たちは敵に勝利します。
この世を支配するサタン、悪魔が
たけり狂っておそってくるときも
彼の手は私たちにとどきません。
彼は神のみことばの一撃で、打ち倒されてしまいます。

4.
世人たちがみな神のみことばをあざけり、
みことばをふみにじっておそれをしらないときであっても
主は私たちと共に戦ってくださり、
聖霊と賜物を与えてくださいます。
世人たちが地上のいのち、
財産、名誉、妻子を奪いとろうとしても
世人たちは何も得ることは出来ません。
神の国は永遠にクリスチャンのものであります。


「いまこそ来ませ」(讃Ⅱ96、新聖歌66)ルター作曲、歌詞の原作はアンブロシウス
 アンブロシウスはアウグスチヌスを導いた方、彼はまた有節賛美をキリスト教会に導入した方でもある。「今こそきませ」は、紀元374年にミラノの司教に任じられたアンブロシウスの賛美の息吹、霊性をそのまま1517年に宗教改革をしたルターが引き継ごうとした賛美歌である。1100年以上の隔たりがあるなかで、ルターはアンブロシウスの霊性を復活させた。この讃美歌は物語性のある美しい讃美歌でもある。

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.12

第五章 宗教改革と音楽

2、カルヴァンと教会音楽

 教会音楽史におけるカルバンの貢献は、詩篇の導入ということであった。カトリック中世において、「詩と賛美と霊の歌」の分類でいくと、「賛美」が進展したと思われるが、ちょうど、補囚の民が異国のシナゴグで素朴な詩篇唱を歌い始めたように、カルヴァンの流れも「詩」に帰っていこうとしたのである。

 カルヴァンは、創作賛美は、教会礼拝にはふさわしくないとした。ふさわしいものは、神の言葉である詩篇のみであるとしたのである。たしかに、詩篇は最高の賛美の模範であった。ただ、彼は「礼拝において詩篇のみ」と言ったのであって、他のキリスト教芸術を否定したわけではない。「人間のリクリエイションやたのしみのために適当ないろいろな事柄の中で、音楽はまず第一のものであり、音楽は神がそのために特に取りのけておかれた賜物であるという確信に、われらを導くものである。」(キリスト教綱要)

 詩篇歌は、讃美歌にもあまり採用されていないが、聖歌に20篇採用されたことは注目にあたいする。神学的に正反対のグループが、詩篇歌を導入したのである。ただ日本の会衆には、なじみにくい旋律が多く、歌集には導入されたもののほとんどの教会で使用されていない。

3、アナバプティスト(再洗礼派)と教会音楽

 アナバプティストたちは、ほとんど、教会音楽や讃美歌には貢献していないと考えられている。なぜなら、彼らは体制派の迫害から逃れることで精一杯だったからである。実際に、アナバプティスト達の音楽は一つも残っていない。ただアナバプティストのあるグループの信仰告白に次のような一節があり、ここから彼らの賛美に対する姿勢を伺うことができる。

 「ところが、み霊によって歌うものは、一語一語よく考え、その意味を深く探り、これが用いられるのはどうしたらわけか、どうしたら、それが自分の性質、自分の生活の改善に役立つかなど考え考え歌う。」(フッタライト派信仰告白より)

 彼らが過去の中世の教会音楽のすべてを否定したとき、どのような新しい共同体音楽を実現していったのであろうか。興味深いところではあるが、初代教会の共同体がどのような新しい歌を歌ったかわからないように、彼らもどのような歌を歌ったかわからない。オランダ語、ドイツ語を使用しつつ、500年間、他の多様な文化圏で旅する民として賛美した。彼らは追われた結果、多様な文化圏への同化と異化を繰り返しつつ、独自の音楽文化を形成していった。ただ言えることは、21世紀の段階で彼らだけの音楽はあまり見当たらない。普通のプロテスタント教会の音楽を自分たちの音楽としているように思われる。

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.11

第五章 宗教改革と音楽

1、ルターと教会音楽

 教会音楽史上、マルティン・ルターの大きな貢献は次の二つに尽きる。それは会衆賛美の導入と自国歌賛美の導入であった。と言うものの、すでに民衆レベルではいつでもこの二つを開始できる気運は高まっていたのである。それを宗教改革という形で実現に至らせたのがルターであった。

 「私は会衆が可能な限り多くの自国語の歌を歌ってほしいと思う。それらはミサの中のグラジュアル、サンクトゥス、アニュース・ディの直後でそれぞれ歌われるべきである。これらの歌がかつてすべての会衆によって歌われていたことは疑いない。今はビショップが聖別している間に聖歌隊のみが歌ったり応答したりしている。これらはミサ全体が自国語で歌われるようになるまで、ラテン語の歌の直後に歌われるか、一日おきにラテン語の歌と交互に歌われるとよい。」
 
 彼は教育的配慮を持って、少しずつ改革を進めていった。であるから、彼の改革は必ずしも音楽面では徹底した改革とは言えない。過去のラテン語のミサ曲やその形式もそのまま礼拝で用いていったのである。しかし、同時に世俗曲を取り入れるということにも踏み切ったのである。ルターは、またこう言う。

 「世間には、この程沢山のすばらしい詩と美しい節があるのに、なぜ教会は、このような無味乾燥なものがあるということになったのだろう。悪魔だけがすべての美しいものを自分の用にたてる必要はない。」


こう言って、ルターは世俗音楽の使用に踏み切ったのであるが、実際は原歌詞の世俗的なイメージが強すぎたために、それ程成功しなかったようである。しかし、成功した曲のなかには次の曲がある。聖歌233番の「みかみは城なり」は「ドイツ史上最高の時期に、最大の人物が書いた最も偉大な賛美歌である。」という批評があるほどの賛美歌であった。
 このようにして、1100年前ラオデキア公会議において、「人々」と切り離された教会音楽も、ここに再び「人々」の音楽として公的に復活したのである。ルターが改革したルター派教会から、「コラール」という賛美歌曲が生まれ出て言った。だが、ルター派教会の会衆歌唱は、思ったよりも普及しなかったのが実情であったようである。16世紀末にいたり、ようやく会衆が賛美歌をよく歌うようになったと言われる。1100年という「聞く」音楽の期間の長さがそうさせたのであろう。むしろカトリック時代から続いてきた「聞く」芸術を完成形に至らせたバッハの功績に心奪われる。