福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.21

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

10、福音唱歌アメリカ)

福音唱歌の作詞作曲者を5人に絞って記しておく。

フランセス・J・バン・アルスタイン夫人(1820〜1915)
彼女は通称ファニー・クロスビーと呼ばれた。6歳の時に失明し、40歳過ぎから福音唱歌を書き始める。95歳で天に召されるまで6000曲に達する率直で熱誠溢れる賛美歌を書いた。毎週三篇ずつ作詞したと言われる。新聖歌でも聖歌でも24曲導入されている(2.18.24.149.176,184,185,203,242,253,264,266.270,283,323,340.341,367,435,447,451,498,514,518)

・アナ・ウォーナー(1820〜1915)
「主我を愛す」(新聖歌505)日本に最も早く輸入された曲であり、日曜学校の浸透とともに普及した。福音主義信仰の骨格を適切にわかりやすく表現した曲である。下記の翻訳は後の横浜共立女学校校長のJNクロスビー女史の訳であり、試訳の内容は本願寺派のスパイにより今日に伝えられている。(「賛美歌 その歴史と背景」原恵より)

1、エスワレヲ愛シマス サウ聖書申シマス
彼レニ子供中、信スレハ属ス
ハイエス愛ス ハイエス愛ス
ハイエス愛ス サウ聖書申ス

2、エスワカタメニ 天ノ御門ヒラキ
ワカツミユルシ ソノチニヨレリ

3、エス愛スイツモ ワレヨワヒトテモ
ワカ病気助ケニ 御座ヨリ下リ

4、エスワカ生涯中 ワカソバ居マス
ワレ死ヌトテモ ワレヲ天ニトモノウ
(大隈家旧蔵文書による。早稲田大学図書館所蔵)



・アイラ・サンキー(1840〜1908)
福音唱歌の一人者で、ムーディーとともにリバイバルの灯を灯す。サンキーの歌が大衆に親しまれた理由は、やはり単純明快な唱歌調の曲で、ハーモニーもごく単純だからであろう。福音唱歌が大衆伝道と共に歩んだことの象徴的な人物がサンキーであろう。説教のムーディーと福音唱歌のサンキーは二人で一つのように歩み、後の世界的大衆伝道者ビリーグラハムと「キリストには替えられません」のジョージビバリーシェーの組み合わせに類似している。


新聖歌に導入された作曲リスト
「主の声退け」(新聖歌180)
「九十九匹の羊は」(新聖歌217)
「われ贖われて」(新聖歌264)
「高き岩よ」(新聖歌308)
「日ごと主イエスに」(新聖歌312)
「光の高地に」(新聖歌458)


・トマス・オビディア・チズム(1866〜1960)
「主の真実はくしきかな」(新聖歌20)、「心から願うのは」(新聖歌382)など200篇を残す。週刊誌の記者から牧師になり、健康の理由で生命保険代理店を営業しながら200篇の讃美歌を世に出した。この時代の福音唱歌は初期のものと比べて、より半音階奏法など複雑な表現となっている。


・ジョージ・べナード(1873〜1958)
「丘にたてる荒削りの」(新聖歌108)、新聖歌にはこの曲しか採用されていないが、この曲は、福音派の教会では圧倒的な人気の曲で、1960年のある調査では、二位の「いつくしみ深き」をかなり引き離して一位となったとされている。苦学の中でメソジストの牧師となり、300以上の讃美歌を残した。

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.20

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

10、福音唱歌アメリカ)

 教会音楽は宗教改革後、かなりの成長を遂げた。ところが皮肉なことに、宗教改革において、賛美は「人々」によって取り戻されたはずであったのに、再び大衆が教会の高度な音楽から取り残されていくという現実が起こっていく。しかし、そのようななかで、特にアメリカにおいて、教会音楽の大衆化が始まっていく。

 そのような中で登場したのが、「福音唱歌」(ゴスペルソング)である。「福音唱歌」はアメリカの産んだ所産である。ただ「福音唱歌」は教派、神学の立場の違いにより評価はかなり分かれる。その理由は、アメリカにおいて二分した根本主義自由主義の対立と関係がある。つまり、福音唱歌は、根本主義(後の福音派)を背景に生まれてきた賛美なのである。

 この曲を一番先に導入したのは単立・バプテスト系であった。他の教派も少なからず、福音唱歌を自分達の教派の歌集に採用した。そして、戦後、衰えたかに見えたが、アメリカにおいては、今尚、強い影響力を持って、教会を導いているのである。特にアメリカにおいて、福音派が成長したことにより、福音唱歌はなお歌い継がれることとなっている。(後に触れるが、日本においては中田羽後、三谷種吉、笹尾鉄三郎などが広げ、中田羽後編の「聖歌」に多くが納められている)

 アメリカの聖歌学者であるスティーブンスンは次のように評価する。「福音唱歌アメリカが行ったキリスト教歌曲への貢献を代表する特徴的なものである。その率直さが長所なのである。優美さや荘重さなどが感動を呼び起こさないような場合に、福音唱歌が大きな成功をおさめるのである。・・・宗教が、生命を保つために大衆に受け入れられねばならない時代に、そして、宗教が少なくとも選挙民の過半数の投票を獲得しなければならない時代に福音唱歌は不可欠なのである。」

 日本キリスト教団関係の教会音楽史に関する書物には、福音唱歌に関する評価はそれ程高くない。現に日本キリスト教団では讃美歌を改訂する度に、福音唱歌を減らしてきた。辻壮一氏の「キリスト教音楽の歴史」にも福音唱歌についてはほとんど取り扱われていない。しかし、私達MBは、この福音唱歌の影響を受けてきた。なぜならアメリカからの宣教師はこの福音唱歌を持って来日し、宣教を始めたのである。いったいこの福音唱歌とはどうゆうものだろうか。

 福音唱歌は、英語の世界では、ゴスペルソングとか、ゴスペルヒムと言う。19世紀中期になると当時アメリカでも組織され始めたYMCAがリバイバル集会の中心的推進力となっていった。そして、南北戦争(1861〜65)の直後、シカゴYMCA会長に就任したのが大伝道者ドワイト・ムーディーで、同YMCA主事の音楽歌アイラ・サンキーとのふたりは間もなく伝道説教者と音楽伝道者として絶妙なコンビを組み、アメリカはもちろん、イギリスにも名声をうたわれることになる。

 福音唱歌の特徴は、歌詞の面から言えば、率直な表現で個人の救いと、その喜びの証しを歌うとともに、救いの喜びを積極的に世の人々に分ちとうとする伝道精神を歌うものが多い。初期のものは表現が単純であるが、後期にはしだいに精微さを加えてくるのが見られる。福音唱歌の多くは「おりかえし」を持つことが特色で、反復による強調とともに、ソング・リーダーが各節の前半を歌い、会衆が後半のおりかえしを歌うという使い方のために便利な構成である。

 曲の面から言えば、旋律的で、大衆受けのする甘美な、あるいはやや感傷的なメロディーと、軽快なリズムを、単純な和声で支える曲が多い。初期の段階を過ぎると、旋律にも和声にもしだいに半音階的な動きが加わってきて、その点、古典的なグレゴリア聖歌やドイツ・コラール、ジュネーブ詩篇歌などの旋律が、全音階的であるのと対照的である。(原恵氏の「賛美歌、その歴史と背景」参照)

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.19

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

8、19世紀前半(アメリカ)

 アメリカの開拓初期時代はイギリス国教会の「詩篇歌」が歌われていた。そして彼らの音楽レベルは、現在のアメリカの音楽レベルからすると、想像できないような低レベルであった。しかし、それは次第に改善されていき、歌われる讃美歌も、本国イギリスからの影響も遅れつつ受けつつ、詩篇歌だけの時代から、ウォッツ、ウェスレーの曲なども歌われるようになる。19世紀前半はまだ、大挙伝道によるリバイバル運動、日曜学校運動、キャンプミーティングなどはなく、これらの流れが盛んになるなかで、福音唱歌(ゴスペルソング)が登場していく。


・レイ・パーマ(1808〜87)「世をあがのう」(聖歌270)この歌は会衆派牧師レイ・パーマが「優しい気持ちで書きはじめ、涙とともに書き終えた。」とされる。この曲は最初は陽の目を見ることがなかったが、アメリカの聖歌の父と称されるロウエル・メーソンがこの詩を発見し、曲がつけられ、教派を超えて世界に広がっていった。


・ハリエット・ストウ(1812〜96)「しずかに神と」(聖歌100)、ストウ夫人の名は「アンクルトムズキャビン」で有名。

・ジョージ・ダフィールド(1818〜88)「たちあがれいざ」(新聖歌454)長老派牧師


9、19世紀中期以降(アメリカ)

 これまでの賛美歌はピューリタン系の人々が中心であったが、次第に、ユニテリアン系と、自由主義系の人々の賛美歌が登場していくようになる。ユニテリアンはイエスキリストを神と信じていない人たちである。また自由主義系の人々は人間イエスキリストを道徳のお手本として生き、社会を変えていこうとした人たちである。

・ジェームズ・R・ローウェル(1819〜91)「ひかりかくらきか」(聖歌304)ユニテリアン派、初めの歌詞の直訳は「個人にも国にも、正、邪かのどちらにつくか、決断を迫るときがある。」である。

エドマンズ・H・シアーズ(1810〜76)「天なる神には」(新聖歌80)、聖歌では「ふけゆく野原の」(聖歌125)であった。ユニテリアン派牧師であるが後にはキリストの神性を信じるようになる。この曲は有名なクリスチャンキャロルの名曲である。

・ジョン・G・ホイッティア(1809〜92)「めぐみふかき主よ」(聖歌268)クウェーカー派、クウェーカー派は牧師や教会を否定する無制度共同体である。神からの直接の霊的衝動を頂いて祈ることからクウェーカーと呼ばれている。

・フィリップス・ブルックス(1835 〜93)新聖歌は「しずかに眠れる」(聖歌124)を導入しないで、「ああベツレヘムよ」(新聖歌84)を導入している。有名なクリスマスキャロルの名曲である。聖公会司祭で自由主義神学者の名説教家

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第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

7、ビクトリア朝(イギリス)

 英国国教会内では、「礼拝する教会(共同体)」としての賛美歌を作ったオックスフォード運動の流れを受けた高教会派、またそれに対して礼拝儀式をそれほど重んじず、非国教会のピューリタン、メソジスト、バプテストなどとも繋がりを持つ低教会派、もう一つは自由主義の影響を強く受けた広教会派、というふうに三つの立場に分かれていった。それ以外に、非国教会でもウォッツ、ウエスレー以降、卓越した賛美作者が登場した。非国教会は、後にアメリカに渡り、創造的な讃美歌を生み出していく。

〈高教会派〉
・サミュエル・J・ストウン(1839〜1900)、新聖歌には讃美歌訳である「いとも尊き」(新聖歌143)が採用されている。聖歌の中田羽後訳「キリストイエスを」(聖歌201)とかなり異なる訳である。この曲は使徒信条を歌にしたもので、この曲は、11番目の「我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」の部分である。3節の争いは教会の神学論争をさすと言う。キリスト教の国歌として称えられた教会の歌である。福音主義教会においても、公同の教会意識高揚のために歌われるべき歌であろう。

「キリストイエスを基として打ち立てられしみ教会は、きみが血をもて買いたまいし花嫁たちの集まりなり」2番「ことばにいろに違いあれど、み民の拝む主、ひとりなり、一つに生まれ、一つに伸び、一つに食し、一つに生く」3番「主の教会はこころみ受け、争いにあい、涙すとも、その幻を主はよみして、ついに勝利を与え給わん」4番「この世と天に分かれ住めど、み民はきよき神にありて、共に交わり、共に待てり、キリストイエスの来たる日をば」(聖歌201)


・サバイン・ベアリング=グールド( 1834〜1924)「進め主イエスの」(聖歌300)、入堂行進曲用賛美歌で15分で書きあげたという。新聖歌には採用されていない。当時の教会は、この曲は英国国教会であっても非国教会であっても心一つに一致を歌う曲として、よく用いられた。しかし新聖歌には採用されていない。歴史的平和主義教会としてのメノナイトとしては「兵士」の意味に十分に聖書的説明を加えた上で歌いたい歌である。

・セシル・フランシス・アレグザンダー(1818〜1895)「みやこのそとなる」(新聖歌110)は聖歌をそのまま引き継ぐ。この賛美歌は、教会のひからびたカテキズムに力が注ぐために書かれたものである。

・クリストファー・ワーズワース(1807〜1860)「仰げや輝く」(新聖歌131)、「山の端に日は落ちて」(新聖歌296)。日本の教会で夕拝がどれほどなされているであろうか。夕拝というスタイルがあって、感動を与える讃美歌であるように思われる。

・アラベラ・キャスリーン・ハンキー(1834〜1911)「語りつげばや」(新聖歌434)福音唱歌に含まれるが、賛美歌集にも入れられる程、芸術性が認められる。1 love to tell the story、讃美歌では「いとも賢き」(讃美歌191)となっている。

・フランセス・リドレー・ハバガル(1834〜1912)新聖歌は聖歌時代の「われいのちを」(聖歌157)ではなく、讃美歌の「主は命を」(新聖歌102)を導入する。「私はあなたのためにこの苦しみ受けた。あなたは私のために何をしたか。」とキリストの絵の下に書かれていたのに感動して作られた。「主はわが命」(聖歌313)も有名である。

〈広教会派〉
・ジョン・アーネスト・ボード(1816〜74)新聖歌は讃美歌より「主よ終わりまで」(新聖歌385)を導入、今までの「世にあるかぎり」(聖歌298)は導入していない。この曲は聖公会における子供の堅信礼詩式のために作られた。


〈非国教会派〉
・セアラ・フラワー・アダムス(1805〜48)「主よみもとに」(新聖歌510)、「主よいよいよ近づかん」(聖歌260)、タイタニック号が沈没したとき、クリスチャンたちのグループが最後まで歌った曲として有名である。

・ホレイシャス・ボナー(1808〜89)、スコットランド自由教会の指導者の一人で、聖書預言研究者でもある。彼は後に5大聖歌作家の一人にもあげられた。「見よや十字架」(新聖歌494)、「主よ御手もて」(新聖歌384)、不朽の名作である「疲れし人々来たれ我に」(聖歌224)、聖餐式の歌である「主よ汝が御前に行き」(聖歌210)、「いざ行き働け」(聖歌224)がある。

・エリサベス・セシリア・クレフェーン「99匹の羊は」(新聖歌217)

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.17

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)


6、オックスフォード運動(イギリス)

 英国国教会内に様々な要素があったことが、このオックスフォード運動によって明瞭になる。英国国教会の枠組みから出たグループが非国教会系であり、彼らは教派を形成し、教派というものは新天新地アメリカに渡っていった。しかし英国国教会の枠組み内にいたグループにも様々な要素があった。。つまり、福音主義的信仰者がそのような福音主義的な讃美歌を作っていったが、オックスフォード運動に関わった人たちは、「礼拝する教会(共同体)」としての賛美歌を作っていった。彼らのなかには、あまりにも典礼を重んずるがゆえに、結果的にカトリックに転向していく人たちも現れるほどのことであった。カトリックへの転向をリードした人物が、ジョン・ニューマン、である。

・ジョン・キーブル(1792〜1866)新聖歌に導入されたのは「来る朝ごとに」(新聖歌27)のみである。以前の聖歌の「ひかりなるきみの」(聖歌103)は導入されていない。「ひかりなるきみの」の直訳は「この魂の太陽、懐かしい救い主よ、身近においで下さるならば、夜ということはありません。地上から黒雲が起こって、おん僕である私の目からみ姿を隠すことがないようにと願います。」

・ジョン・ニューマン(1801〜1890)ジョン・ニューマンはオックスフォード運動の流れに乗ってカトリックに転向していった。聖歌に導入されていた「さびしき夜道あゆむ」(聖歌276)は、今回の新聖歌には導入されていない。直訳すると「恵み深い光よ、暗闇に迷っている私に、どうぞ行く手をお示しください。夜は暗く、私は故郷を遠く離れております。どうぞ行く手をお示しください。遠い景色を見ることを願うのではありません。眼前一歩を踏み出すことができれば沢山です。」であるが、彼の深い霊性が歌われている歌詞である。

福音聖書神学校「礼拝と音楽」No.16

第六章 讃美歌の歴史(ルター後の時代から福音唱歌まで)

5、19世紀(イギリス)
 18世紀の非国教会系の人達のペンから賛美歌が泉のようにあふれ出したのであるが、19世紀には、今度は英国国教会の作者達に中心が移り、それまでは教訓的、実用的な面が強かった賛美歌が、文学的にも洗練を加えてきた。

・レジナルド・ヒーバー(1783〜1826)新聖歌では中田羽後訳の「北はグリンランドの」(聖歌527)ではなく、讃美歌のおとなしい訳の「北の果てなる」(新聖歌432)が導入されている。原作者の歌詞を直訳すると、「グリーンランドの氷だらけの山々から、インドのサンゴ礁がある岸辺から、日光が照りつけるアフリカの泉がきらきらする砂の下に流れ込むところから・・」この歌は、レジナルド・ヒーバーが、救霊の熱情を持ってインドに派遣されていく前に作られた歌で、本国で牧会している中での彼の宣教への思いが表現されているところに、この歌の真実味がある。彼は43歳の若さで天に帰っていく。他に歌い継がれている歌に「せいなるかな」(聖歌96)、「たえにくしきあかぼしよ」(聖歌141)がある。


・ジェームズ・モントゴメリー(1771〜1854)親はモラビア兄弟団の牧師であったが、インドに宣教に赴く。それでモラビア派の学校に預けられるが、その生活に耐えられず中退し、作詞だけを喜びとする日々を送る。肉体労働に勤しみ、職を転々。その後も歌詞の内容が革命支持だと疑いをかけられ牢獄されたりもする。彼は作詞だけを喜びとしドラマティックな人生を全うする。400以上の讃美歌を作る。「なやみの日に」(聖歌307)は彼の生き方がそのまま表現されている。他に「あまつみつかいよ」(聖歌144)、「くらきゲッセマネ」(聖歌160)がある。しかし新聖歌には一曲も導入されていない。


・シャーロット・エリオット(1789〜1871)「いさおなき我を」(新聖歌231)「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。」。日本では大衆伝道の招きの歌として有名になっている(本田クルセードの招きで、この歌を有賀喜一師が歌ったことで愛される曲となった)。聖歌の中田羽後訳は「ほふられたまいし」(聖歌271)。


ヘンリー・F・ライト(1793〜1847)「日影は遠ざかりゆき」(聖歌104)自分の人生の夕暮れを予感し、この歌を作る。「私達と一緒にお泊まりください。」(ルカ24章29節)を各節の結びとしている。新聖歌では讃美歌21の「日暮れてやみはせまり」(新聖歌336)が導入されている。過去の讃美歌訳も名訳である。「日暮れて四方は暗く」(讃美歌39)。


聖歌104(中田羽後訳)
1、日陰は遠ざかりゆき 夕暮れははやもせまる
寂しきわれとともに   宿り給えわが主よ

新聖歌336、讃美歌21、218
1、日暮れてやみはせまり わがゆくてなお遠し
助けなき身の頼る 主よともに宿りませ

教会福音讃美歌430(口語化100%)
1、夕闇の迫るとき 頼り行く身を支え
いつまでも離れずに 主よ、共に居てください。

新生讃美歌478
1、日のかげはうすれゆき くらきやみ身をかこむ
助けなきこのわれと ともに存(いま)せ わが主よ

私訳(口語化100%)
1、日のかげ うすれてゆく 暗闇が身をおおう
  寂しい我とともに 居てください、わが主よ