究極は、いのちがあるかないか

 歌が残るか残らないか、歌い継がれていくか継がれていかないか、は結果的に重要なことだと思いますが、私たちが関心を持つべき焦点は、そこにいのちがあるかないか、いのちを感じられるか、これに尽きると思います。どんなジャンルの歌であっても、いのちがあるかないか、でしょう。私たちが昔の歌を歌うのは、昔の人のいのちに触れたいからです。音楽とはいのちを運ぶ風呂敷包のようなものです。あの時代のあの地方のあの流れのいのちに触れたいので、大切に風呂敷包に入れて中身を確かめ、歌ってみるんです。私たちはそれを諦めてはならないのです。あの時代のあの地方のあの流れのいのちをもう一度、今の自分の教会というコンテキストで回復させるのです。私は教会音楽というできあがった分野は少し居心地が悪いと思っています。むしろ教会音楽というよりも、会衆賛美音楽の回復が大切だと思います。会衆賛美音楽のなかにいのちが問われているのではないかと思います。じゃあ、聖歌隊とは何でしょうか。聖歌隊とは、会衆賛美音楽をサポートする会衆賛美音楽の導き手ではないかと思います。