YouTubeで様々なタイプの外国語賛美を聴くなかで

 YouTubeで外国語の言葉がわからないままで、賛美を聴くうちに、それぞれよく似た音楽を歌っているなあと思ってしまうのは私だけだろうか。ということは、賛美の力はやはり音楽ではなく、言葉なんだと思い知らされる。まず「言葉ありき」ではないか。言葉があるならば音楽はついてくる。言葉に従属して音楽はついてくると思う。そういえば、天田繋氏が日本語の「詩がない、詩がない」と言われていた。やはり、誤解があろうとも、「まず言葉ありき」と割り切って言わなければならないのだと思う。


 だとしたら、日本語、なのだ。私たちクリスチャンの使用する日本語だとしたら、どこから力ある日本語が出てくるのだろうか。いろいろ可能性があるが、まずは、毎週日曜日の準備された礼拝説教こそが、力ある日本語を生み出す発電所だろうと思う。説教こそが受肉しそうになる言葉を提供できる。もちろん、そこでの言葉は、聞き手も含めた共同体力によって力を生み出すものだと思う。言葉とはテキストとコンテキストの出会いだからである。また、個人のデボーションによって生み出す言葉もある。そしてそのデボーションを分かち合う、対話のなかでの言葉が想像的・創造的になればなるほど、力ある言葉が生み出されていくだろう。また牧師ではなく、一人一人が生活の現場で体験していく痛み、苦しみ、戦いの連続を表現しようとするとき、言葉が生み出されていくように思う。

 しかし、今日本では、音楽がほとばしる前に、音楽以前の言葉の表現の場、冒険の場も少ない。教会の礼拝に来て、礼拝後の対話が少ない。挨拶言葉だけの言葉では、力ある言葉は生み出されない。自由がないと力ある言葉は生み出されない。教会全体に表現の場、冒険の場、失敗の場が提供されないといけないと思う。