タイミング

 日本MB教団宣教開始と中田羽後師の聖歌出版とは重なる。聖歌は聖潔派の福音連盟の歌集であるが、実際は私たちのような戦後中堅福音派の歌集と言っても良いほど、助けられた歌集となった。戦前からの聖潔派はすでに日本基督教団の賛美歌が定着していたので、全面的に聖歌を導入できなかった教会が多かった。教会は保守的になるものなので、容易に歌集を変えることはできないものである。

 結果的に聖潔派の多くは、礼拝は賛美歌、夕伝道会は聖歌というように、両方を使用する教会となっていった。しかし、中田羽後師は詩と賛美と霊の歌、という独自の分類で、彼なりにバランスのとれた完成度の高い聖歌を作りあげたのである。結果的に、中田羽後の目的にかなった教会は聖潔派のなかにあったのではなく、戦後中堅福音派の私たちのなかにあったように思う。あの頃にタイミングよく全面的にMBが中田羽後の聖歌を導入できたことは宣教論的にメリットが確かにあった。

 聖潔派が十分に聖歌を導入できなかったのは、聖潔派独自の背景があったと思われる。聖潔派(ジョンウエスレーの流れ)は敬虔主義運動の中核となっていくが、時間の経過とともに英国を背景とした英国国教会形式に回帰していく特徴を持っているからである。つまりアメリカ的な「おりかえしつき聖歌」の流れを一つのムーブメントとして捉え、本来のイギリス的な礼拝学に回帰していくという傾向を持つように思われる。しかし中田羽後は父と同じムーディー聖書学院のリバイバル運動の影響を強く受け、伝道的なおりかえしつき福音唱歌(ゴスペルヒム)に生命を注いだ。この流れを引き継いだのがバプテスト教会連合所属の和田氏であり、彼は必ずしも聖潔派ではなかった。

 ムーディーとサンキーの生命を受け継ぎ、その流れを大切にした人物は中田羽後だけではなかった。むしろ、彼よりも前に、日本にムーディーとサンキーを紹介したバークレーバックストンがいる。彼は英国国教会からの宣教師であったが、ムーディーとサンキーのリバイバル集会の影響を受け日本に来た、アメリカ的な「おりかえしつき福音唱歌」にも理解を示した人物である。バックストンが「おりかえしつき福音唱歌」に心傾けた結果、二人の弟子がこの流れを引き継ぎ、歌集を発行していった。それが初期の弟子である、音楽伝道者、三谷種吉であり、笹尾鉄三郎である。私の恩師、三谷種吉の娘、三谷幸子先生のなかに、アメリカ的な福音唱歌の息吹を感じることができたことは感謝である。とともに、三谷幸子先生からは、イギリス的な礼拝学の息吹きとドイツ的なルター派の息吹きも伝えてくださった。

 私たちは聖潔派の諸事情を知らないなかで、自由教会派、会衆制度派、戦後中堅福音派として、全面的にこれを導入したのである。そして聖潔派の諸事情解消のために村上宣道師を中心として新聖歌が発行されたが、聖歌が我々MB独自の歌集でなかったがゆえに、福音派の公同性なるものを受け継ぐ意味で、同じように新聖歌に移行していった。

 しかし新聖歌は聖歌とは事情が違っていた。聖潔派が賛美歌と聖歌の両方を使用していたものの合本であった。そしてアメリカ文化の影響を強く受けた教派に対してはメリットの少ない歌集であったと思う。そこまで教会暦にこだわり、厳格な礼拝学を導入する教会でない私たちは、今、次の生命を賛美歌集に求めねばならない時代が来ているように思う。

 同じ自由教会の歌集として、日本バプテスト連盟の新生讃美歌を横目でみながら、自由教会としては良い歌集であるが、福音主義自由教会としてはどうか、また再洗礼派としてはどうか、と思う昨今である。また福音派内でも日本福音同盟に所属する大教派が合同で新しい歌集が発行されたが、この作成段階で協力する機会がなかったがゆえに、今の段階ではもちろん、自分たちの歌集になり得ない状況にある。そこで新しい歌集が必要だと思うようになっている。

 その場合のコンセプトが、穏健福音派、自由教会派、平和共同体、ではないかと思います。